セーフティー・はーと

セーフティー・はーと

「これからの日本にとって、安全は」

山中 洋 <三井化学株式会社> 2013年7月8日掲載
最近の新聞記事を読んでいると、グローバル化の加速に伴って日本の産業が大きく変化しつつあるのを強く感じる。

これは即ち、日本の企業の果たすべき役割が今までとは変わってきていることを示しているのであろう。
歴史を振り返ってみると、人々にとっての世界は着々と拡がってきた。原始時代には「集落」、江戸時代には「藩」、明治維新後には「日本」が人々にとっての世界であったと思う。これと同様に、いま人々にとっての世界が「日本」から「地球」に変わってきている。このような変化の時代の中で、日本企業の役割が大きく変わるのはごく自然なことだろう。世界が拡がる度に役割分担は最適化され、たとえば「大規模プラントは都心よりも地方に建設する」という今までの常識が「大規模プラントは日本よりも新興国に建設する」という風に変わりつつある。
では今後、世界における日本企業の役割とはどのようなものになるだろうか?個人的には、日本は今「お金持ちのシニア国」というポジションにあると考えている。資金力は潤沢だが、少子高齢化により労働力は減少している。このポジションから考えると、今後日本の企業が世界で活躍する分野(≒世界から期待されている分野)は「資金力」や「経験」を生かした分野になると思う。
経験が生きる分野の一つとして真っ先に思い浮かぶのが「安全」だろう。安全を維持するには、過去に痛い目に遭い、これを克服してきた経験が生きる。安全には過去の経験の積み重ねに基づく慎重な判断が不可欠であり、これは新興国が一朝一夕にキャッチアップできるものではないと思う。この強みを生かすためには、長年にわたり蓄積してきた経験を確実に伝承し、一つ一つ着実にサイエンスにしていくことが重要なのではないだろうか。安全の分野には、科学者にとって幸いなことに暗黙知が今なお多く存在し、サイエンス化する余地がまだ十分に残っていると感じている。日本の安全工学は、今まさに発展期に突入するところだと思う。

『リスク』という語について

熊崎美枝子 <横浜国立大学 大学院環境情報研究院> 2012年7月9日掲載
国内の政治・経済・経済情勢も先行き不透明で、日々報道される世界情勢も混沌とし将来が読めない昨今では、

不確実性の高い状況を説明する上で『リスク』という語は、大変便利な言葉だと思います。『リスク』とカタカナで書かれていることから、比較的新しい言葉であることが推察されます。オンライン記事データベース(聞蔵Ⅱビジュアル)で調べましたところ朝日新聞の記事中に『リスク』という語が用いられたのが1984年には37件だったのが、徐々に使用頻度が増え、1998年には1166件、2011年には震災の影響もあってか2193件に達しており、近年ではすっかり身近な語として浸透したようです。それだけ新聞記事がリスクという語を用いて、時代の不確実な面を切り取っていると言えるでしょう。

   しかし果たして我々は『リスク』という語が表す意味を理解し、共有しているのでしょうか。事実、データベース中には「リスク(危険)」 「危険度(リスク)」と書かれているような記事もあり、『リスク』という語が本来もつ「顕在化する可能性」の要素が抜け落ちていたり、事象や物質・システムがもつ固有の『ハザード』と混同しているケースも見受けられます。このような混同は、安全性を考える議論において問題となってきます。ハザードについて対策しているのか、リスクについて対策しているのか、自ずと対策の内容も異なるはずであり、管理の仕方も変わるので議論している場では参加者が認識を共有する必要があるでしょう。

   ヨーロッパ言語のなかにはリスクとハザードの区別がない言語もあるとのことですが日本語話者である我々も改めて『リスク』と『ハザード』について、認識を見直してみる必要があるのではないでしょうか。

 

東日本大震災から1年を経て

古積 博 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2012年3月29日掲載
東日本大震災から1年が経過した。被害に遭われた方々には改めてお見舞い申し上げます。
この間、辛い経験をされた方もおられることと思います。私自身も震災地に親戚を持ち、また、色々な経験をしたが、ここでは、別な観点から述べてみたい。私、昨年3月で定年退職した後、外国に行く機会を得、様々な外国人、外国のマスコミ報道に触れる機会があり外国人が日本をどう見ているか知ることができた。
 外国のテレビ、新聞が日本について報道することはほとんどないが、さすがに、東北地震だけはよく報道されていた。単に感傷的な報道や地震の怖さだけではなく、原子力の怖さ、世界の政治、経済への影響等細かいことまでよく報道されていた。日本の産業の空洞化と日本の産業の移転によって受入国の雇用促進の話もニュースになっていた。改めて、世界地図で見れば、日本は、ごく小さな島国で、原発事故で日本全体が被害を受けたと思われても仕方ないようである。
 日本の民度の高さ、最小限の混乱しか起きなかったことはよく知られており、この面では確かに相変わらず日本は評価されている。「ふくしま50」という言葉はよく知られており、日本の現場力、特に社会全体において自己犠牲の精神、責任力の高さが評価されている。改めて、日本が好きになったとか、日本人が尊敬できるといったことをよく言われた。ただ、日本の現場力の高さは、反面、日本の組織のトップがいかに責任を果たしていないかの裏返しと思う。日本の国政の混乱や原子力行政・技術・研究のまずさはまさにその一端だろうが、企業や官庁でも同様かもしれない。さらに学会組織はどうであろう。確かに、多くの底辺の職員、研究者、技術者は優秀であるが、どうもそれを束ねる力とか戦略が不足している気がする。先日も、被災地を訪問し、遅々として進まない復興の様子や瓦礫の山を見ると情けなくなる。どうも日本人は、このような力が足りないのかもしれない。行政組織、企業、学会その他の組織のトップ、幹部の方には、ぜひ、がんばって貰いたいと思う。

第138号 失言

鈴木 和彦 <岡山大学 大学院 自然科学研究科> 2012年1月17日掲載
昨年(2011年)に開催されたある会合での「私の失言」の話である.
安全教育についての会合後の懇親会で,乾杯の音頭と挨拶を 依頼された.そこで私は「安全は大切だが企業が利潤を追求することが重要である.利潤を得てこそ安全に投資することが可能となる.しっか りと安全教育を実施してほしい.」旨の発言をした.「失言」であった.その場がしらけ,懇親会の最中に参加者から「企業にとって安全が第一である.なぜあのような発言をしたのか?」と叱責・非難された.その頃の私の問題意識の中に「企業の国際的競争力の低下」があった.国際競争力を失い,企業の体力が低下すると,安全への投資は減るばかりである.競争力強化を願うことからの発言であった.しかし,「失言」であることには間違いない.「安全第一」の重要性を今一度しっかりと肝に銘じようと反省の日々である.

その会合での「失言」が今でも気になっている.いくつかの企業の方に質問すると,ほとんどは「利潤追求」より「安全」であると言われる.しかし,現実はどうであろう?現場の人員は極限近くまで削減され,課長さんは書類作成・整理に追われてほとんど現場に出ていない.現場の悲鳴が聞こえ,現場の細部に安全管理の目が行き届いていない.平常時の業務はこなせても,非定常な状態に適切に対応できていない.そのことから事故が起こっている.

企業では [安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間での活動を強いられる.そのような状況の中,安全成績が優秀な企業・事業所が確実に存在する.経営層・上級管理職の強いリーダシップ,現場での使命感・納得感が感じられる.さらに,そこには適切な資源配分が施されている.

昨年の「失言」の後遺症かもしれないが,[安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間で悩みそうである.その解が「安全文化」かもしれない.

しかし,最近の学生達,若い大学教員・研究者に競争意識がない.その結果,競争力がない.このことも気になる.

第137号 ISO 26262「自動車の機能安全」は日本の得意技となり得るか

佐藤 吉信 <東京海洋大学 海洋工学部> 2011年11月22日掲載
さる11月15日にISO 26262「自動車‐機能安全」、
すなわち自動車(重量3.5トン未満の乗用車)における電子制御システムの機能安全規格が正式にISOより発効された。
現在の状況は、自動車レースに例えれば、セーフティカ―(先導車)あるいはポールポジション車両が先導してコース周回走行中であり、これが3~4年間継続した後、いよいよローリングスタート(Rolling Start)となる状況に似ている。すなわち、3~4年後には我が国においても自動車の機能安全規格(ISO 26262)適合車種の市場への流通が開始される見込みである。

自動車電子制御の安全指針策定すなわち自動車の機能安全規格策定の経緯を振り返ると、国内では、2001年から2002年にかけて、国土交通省がスポンサーとなり、機能安全基本規格IEC 61508「電子・電気・プログラマブル電子安全関連系の機能安全」を自動車の電子制御の安全基準策定に応用する検討会(事務局:自動車研究所、座長:佐藤吉信?東京海洋大学)が実施された。検討会の調査報告書は、その後の我が国の例えばABS(Anti-lock Braking System)の認定試験などにおいて少なからず活用された。しかし、この種の検討会の国の予算措置は通常2年程度が限度である。国際規格への提案となれば、最低でも5年は予算措置を継続する必要がある。結局、我が国からは自動車の機能安全規格策定の提案を行うことはできなかったという苦い思い出がある。

その頃、EUでは、ドイツとフランスが中心となり、同様に自動車電子制御の機能安全規格の策定が開始されたといわれている。そして、2005年6月、ISO/TC 22/SC 3においてドイツのDINを事務局とするISO 26262原案策定ワーキンググループ(WG)が発足したことになる。その結果、舞台をISOに移して、ヨーロッパ、日本、米国などの自動車メーカーと部品メーカーからのエキスパートを中心としたWGの精力的な6年6ヶ月の作業、非公式の地域的な検討開始から数えれば実に10年の歳月をかけてISO 26262が発行されたことになる。

もっとも、ISO 26262は基本規格IEC 61508を親規格とした自動車用製品規格であり、その誕生まではIEC 61508の策定作業の開始から実に20年近い歳月が流れたことになり、感無量の思いもある。筆者は、直接的にはISO 26262の策定作業には関わらなかったが、完成したISO 26262を読むと、IEC 61508における安全マネジメント及び技術上の基本的な要求事項、例えば、SIL/リスク軽減、決定論的能力、安全側故障割合(SFF)をそれぞれASIL/リスク軽減、ASIL具現化のための分解(decomposition)、フォールト・メットリクスなどとして、自動車電子制御の機能安全のための特有な仕立て直しと具体化(tailoring)を行っている。さすがに、自動車産業は人材豊富であり、いずれも的確な仕立て直しと具体化である。

ものづくりが生命線である日本にとって、ISO 26262「自動車の機能安全」規格の実践を日本の得意技とし、安全においても世界をリードしていくことが筆者の願いでもある。

第136号 ヒューマンエラーとペナルティ

和田 有司 <独立行政法人産業技術総合研究所・安全科学研究部門> 2011年10月6日掲載
NPO安全工学会では,保安力評価システムの構築を進めている。
保安力評価は,生産技術における安全確保の仕組み(保安基盤)とそれを活性化させる人間系(安全文化)の項目をそれぞれ評価することによって実施することが検討されている。これらの評価項目の詳細については,安全工学誌や安全工学シンポジウムでの講演で紹介されているので,ここでは省略する。

先日,この安全文化の評価項目について検討するワーキンググループで,「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」は安全文化として重要であるかどうか,という議論があった。

ヒューマンエラーに対して,ペナルティを科すことなくその原因を追及し,必要な対応をとる,というのは理想的ではあるが,実際にはなかなかそうはいかないらしい。例えば,故意にルールを逸脱した場合やうっかりミスの場合は,しっかり罰しないとダメだ,ということのようである。

残念ながら筆者は実際の現場のことはよくわからないが,それでもヒューマンエラーにはペナルティを科すべきではない,と思う。故意にルールを逸脱する行為にしても,その背景には何か原因があるはずである。手順の省略であれば,どこかに時間に対するプレッシャーがあるのかもしれないし,そもそもルールが守られにくい内容なのかもしれない,そうでなければ,なぜそのルールを守らなければならないという"Know Why"の教育が足りないのかもしれないのである。うっかりミスも,その背景には過重労働や作業のチェック体制に問題があるかもしれない。

ヒューマンエラーに対して,そういった分析をしっかりやって,可能な限り対策をとること(資金や時間の問題で手が回らないところは,理由を示して十分に注意喚起する)が大切で,ペナルティを科すことによって効果を得ようとしても,のど元過ぎれば・・・になる可能性が高いと思う。

安全文化の評価に話を戻す。「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」と言われたときに,そんなことは無理だ,という企業(や事業所)に対しては,ヒューマンエラーをどこまで分析しているか,が評価の分かれ目になるであろう。ろくに分析もしないで作業者に責任を押しつけているようではダメなのである。

第135号 安全第一 とは

若倉 正英 <独立行政法人 産業技術総合研究所> 2011年8月26日掲載
安全工学会では、小野会長のご尽力で石油化学産業の社長経験者また現職の社長さん方との意見交換を何度も行い、安全に関する社長の役割についてとりまとめている。
意見交換会に同席させていただいたおり、トップの方々に共通する思いが2点あるように感じられた。1点目はお題目としての「安全第1」はあまり意味がないといわれる方が多いことであった。安全が必須なのは当然であって、その上に企業の存続と発展があるのだが、それを社員にどのように理解してもらうのかに苦慮されているという。ある社長さんが、「若い社員達はボランティアに関心が高く、東北大震災への対応も生かして、企業の社会貢献の重要性を基盤に安全の意義を浸透させたい」といわれていたのが心に残っている。若者のボランティアへの関心については、社員教育を主な業務とする会社の方からも同じことを聞いている。

第2は自社の安全のレベルや安全風土の弱点についてであった。安全部門を含めて一生懸命取り組んでいることは理解しているが、会社の運営に全責任を負っている社長さんとしては、業界内での安全上の位置づけを知りたいというのは、切なる思いのように感じたのであった。

なお、社長の役割についての意見交換の経緯や提言は、安全工学誌Vol.50 №3・№.4で報告されている。

第134号 東日本大震災における「避難」の実態についての雑感

藤田 哲男 <東燃ゼネラル石油株式会社> 2011年7月11日掲載
早いもので、東日本大震災の発生から、二ヵ月半も経ちましたが、依然として、福島第一原発は収束の見込みがはっきりせず、何とかその方向が一刻も早く見えるようになることを切に願っている毎日です。
一方、大震災の事故解析は進みつつありますが、最近、都心からの帰宅困難者の問題が取り上げられていましたので、今回は「避難」の課題について考え直してみることにしました。

当日の「避難」の実態を追ってみると、その準備のあり方およびその実際の実施方法によって、大きな差異があったようです。たとえ、準備をしていても、想定外の津波の大きさには到底対応できなかったケースもありますが、きちんと綿密に対策を取っていれば、助かったケースは多かったと考えられます。車で避難しようとして、却って渋滞で命を落としたケースも多々あったようですが、車の機能を過信してはいけないと言うことのようです。「まさか」とか、「まだ、大丈夫」とかの思い込みで被害にあった例も多かったようです。改めて、大震災に向けた「避難」要領を見直して、その実施訓練を早期に計画する必要があるように感じました。

また、都心からの帰宅困難者の問題については、皆一斉に帰宅に向かえば、却って危険な状態に陥る可能性が高いことが実証されたようです。帰宅の動機は、家族の安否確認が取れない、家族に早く会いたいと言うことが多かったように思われますが、安否確認方法や携帯電話等の連絡手段の向上を図り、都心での避難対策をもっと充実させれば、ある程度は解決されるように感じました。

つい先日も、死亡事故に至らず幸いでしたが、JR北海道石勝線トンネル内での特急列車火災事故では、まさしく「避難」のあり方がことの大事を左右しました。問題は、避難誘導がJRによってなされなかったことです。想定、想定外の是非はともかく、ここは真摯に不備を認め、再発防止に努力する姿勢が求められていると感じました。

第133号 放射線化学と原発事故

中村 順 <財団法人 総合安全工学研究所> 2011年5月30日掲載
私は、大学院を放射線化学教室でお世話になりました。放射線化学とは電離放射線を物質に照射したときの化学反応を研究する学問で物理化学の範疇です。
水に放射線を照射すると水分子のイオン化、励起により、水素原子、ヒドロキシルラジカル、水和電子が生成します。引き続き反応により水素ガスや過酸化水素などが生成します。酸素ガスは発生しません。放射線環境下に水があれば水素が発生することは昔からよく知られている事実です。溶液の場合には、それらの活性化学種と溶質との酸化還元反応などによりさらに他の生成物が生じます。細胞に放射線照射したときには、水分子から生じるラジカルと生体構成分子との間接反応や、生体構成分子の直接のイオン化などによりDNAなどの鎖の切断、架橋などの反応を起こして、生体内でうまく修復できないと傷害が現れたり、突然変異が起きて発がんをしたり、遺伝的影響を及ぼすことになります。

一方、私は大学院修了後、科学警察研究所で爆発事故の原因究明の仕事を長年し、数多くの爆発事故現場を見てきました。今回の原子炉建屋の爆発事故については、水素爆発と不正確な言い方がなされていますが、水素だけでは爆発しないので空気(酸素)と混合し、それに何らかの着火源により着火爆発したものと考えられます。水素ガスの可燃性を示す濃度範囲、着火エネルギー、圧力の影響など多くのデータが公表されており、いかに爆発事故を防ぐか安全工学の基本的な事項でもあります。一方で原子炉事故に関しては、水蒸気爆発の可能性も指摘されています。昔、水蒸気爆発のメカニズムがよくわからない時代に、高温の物体に接触した水が酸素と水素に分解して,それが再度反応してガス爆発を起こすと言われたことがあります。しかしながら現代ではそれでは現象を説明できず,水の急激な気化による物理的爆発として知られています。水と高温の物体との接触の状況の違いにより、突沸や噴出程度から凝縮相爆発に近いような強力な爆発まであり、その原因解明は比較的難しいものです。

事故原因の解明に科学者や技術者としては、起こっている事実をいろいろな角度から検討することが必要です。専門家とか解説者などという方々が発言されていますが、正確でない部分もみられます。運転状況の調査や、詳細に現場観察することができない状況では、推測しかありえないでしょうが、その言葉の責任はどうとられるのでしょう。

さらにインターネットや今回の事故に関連して急遽出版された本屋に並んでいる本にはなかなか必要な情報に行き当たりません。原因究明も難しいのに、一方的原因を書いて過失の追及を熱心に行っているサイトも見られます。

中国の漢の時代のことを書いた漢書という本にみえる語で「実事求是」という言葉があります。実証を重んじ,証拠のないことを信じない態度をいいます。このときだからこそ、自らの考えで判断されることが必要だと思います。

第132号 第三者というもの

土屋 正春 <株式会社 三菱総合研究所 科学・安全政策研究本部> 2011年4月25日掲載
「第三者認証機関」という言い方は、国際標準的には正確ではない。
なぜなら、「認証」というものは、第三者によって行われるものと定義されているから、という理由である。ものを作ったり売ったりする人が第一者、それを買う人が第二者。第二者としては、その取引にあたって、第一者がごまかしていたりすると困る。そこで正当性を確認するための存在として、どちらからも独立した第三者が登場することになる。

企業の品質マネジメントシステムや環境マネジメントシステムの認証を行っている組織は、この第三者。この面では、品質や安全が確保されていることを証明する合理的な方法として、日本でも認識されてきたといえる。しかし、一般には、第三者の考え方が定着しているとは思えない。市場に流通する商品を良く見ると、安全や品質を確認しましたという意味の多種多様のマークが表示されている。それらには、第三者が付けているマークもあるが、実は第一者が付けているマークも数多い。製造した企業や業界団体が、自らの製品の安全性や品質の確認を宣言することは悪いことではない。しかし、それがなんとなく客観的な証明として受け取られてしまうとしたら問題だろう。製品に表示されているマークを見かけたら、第三者という立場からも考えてみていただければと思う。

第131号 地震津波災害の大きさに圧倒されての雑感

西 晴樹 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2011年3月22日掲載
2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。
最大震度7を記録した東北地方太平洋沖地震と名付けられたこの地震は、その大きさもさることながら、引き起こした被害の大きさは、まさに未曾有のものです。

地震が発生すると、筆者の携帯電話に連絡があるのですが、3月11日午後は携帯電話が鳴り止みませんでした。

直後に、報道各局のカメラが捉えた大津波の映像がテレビに映し出され、炎が津波に合わせて移動していく様に恐怖を感じました。

この原稿を執筆している段階で、死者3473人、行方不明者7355人、負傷者2333人となっており、人的被害の大きさも想像を絶するものでした。ただ、亡くなられた方のご冥福をお祈りするばかりです。

原子力発電所の爆発火災、津波による建物や石油タンクの倒壊、コンビナート火災、石油タンク火災、危険物の漏洩、石油タンクの浮き屋根の沈没などの事故が発生し、一つだけ見ても大変な事故なのに、それが同時多発で発生することはあるかもしれないが、可能性はほとんどゼロだろうと漠然と思っていました。

街、石油コンビナート、原子力発電所を高さ10mの防潮堤に囲まなければ今回の津波被害を完全に防ぐことは難しかったでしょう。「高さ10mの防潮堤」を想像する度に、今回の巨大地震が発生するよりも「ありえない」と感じていたのも否定できません。

しかしながら、実際に巨大地震は発生しました。改めて日頃の想像力が如何に足りなかったかを思い知らされました。地震の発生を止めることは恐らくできないでしょうから、この日本で暮らしていくためには地震とうまく付き合っていくことが重要なのでしょう。地震学者によれば、今回のような地震は1000年に1回だとのことですが、1000年前の平安時代の人も生き残って今日の日本があるのですから、現代の私たちも今回の地震被害にくじけたりせずに、なんとか生き抜いて、より安全な社会を作っていくことが肝要と思います。

第130号 親切な案内と産業保安

高木 伸夫 <システム安全研究所> 2011年2月18日掲載
初めて日本に来た外国人が、日本には標識が多いのに驚くということを聞いたことがある。
交通標識はしっかりしているし、街中においても、また、名所・旧跡においても多数の道案内や標識が見受けられる。目的の場所に行くのにも自分で考える必要もそれほどない。これは列車においてもいえることで、行先や停車駅の案内、マナーやお願いに関する車内放送がおせっかいなほど多い。とにかく親切な表示や案内が多く、どこに行くにも、何かを探すにも便利でありイージーである。これらは日本人の几帳面さや親切心によるものといえようが、だがちょっと待てよ、知らず知らずのうちにみんなが同じ方向を向いてしまっているのではないだろうか。案内の通りに行動すればそれほど考える必要もなく確かに無難であるが、こんな道もあったのか、こんなところに神社があったのか、といったような思いもかけない発見の楽しみを奪っていないだろうか。自分でいろいろと考えて行動すると、大きな回り道をしてしまうかもしれないというリスクもあるが貴重な体験が得られるともいえよう。

この標識などの案内と同様のことが日本の産業保安における安全管理にも言えることではないだろうか。産業保安においては仕様規定型の法令を順守するという構造が長く続いてきた。仕様規定型の長所は、そのとおりやれば誰でもが一定の成果が得られるという長所はあるが、それは逆にそれさえやっていればよいという安易な方向に走り、思考の停滞を招き、新しい技術や方策、管理体系を模索する努力を失わせてしまうことになりかねない。法令順守は当然であるが、社会の多様化、技術の多様化が進んでいる時代においては、法の枠組みを超えて、それぞれが今より一歩先の安全目標を設定し、自分で考えて安全確保の方策を策定し実行していくことが必要といるのではないだろうか。

第129号 安全・不安な社会

大久保 元 <株式会社 エックス都市研究所> 2011年1月20日掲載
最近は「安全・安心な社会の確立」とか「安全・安心な社会の構築」とか「安全・安心」というキーフレーズがよく使われているように思いますが、私はやや違和感を覚えます。
「安全」の部分には全く反対しませんが、「安心」の部分にはおいそれとは賛同しかねます。

安全な状態を担保するためには、社会に棲む人々が日々懐疑的精神を失わず、あらゆる事象を疑い、自らの頭で考えた上で、適切な判断を下すという姿勢が不可欠であると思います。したがって、「安全・安心な社会」と一気に縮めるのではなく、各人が感じる「不安」を端緒とし、懐疑的精神に基づき、十分な思考や行動を重ね、その結果として「安心」を享受するという社会、つまり、縮めるのであれば、敢えて誤解を恐れずに「安全・不安な社会」とでもした方が望ましいのではないかと考えています。

第128号 ノーベル 安全工学賞

岡田 理 <三井化学株式会社> 2010年12月6日掲載
2010年 ノーベル化学賞を鈴木先生、根岸先生が受賞され、日本に明るい話題が走った。両先生は、出身校などで講演をされ、研究に対する情熱などを語られている。
2000年以降、ノーベル化学賞、物理賞で同時受賞など日本人受賞者が増え、日本の科学が注目されている。ご存知の通り、ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベルが自分の遺産を人類のために貢献した人々に還元するようにと言う遺言から始まったとされている。ノーベル賞には、物理賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の6部門がある。ボーダレスの昨今、物理賞、化学賞、生理学・医学賞の領域の違いがわかりにくくなってきているような気がする。将来、自然科学賞などと一括りにされることがあるかもしれない。人類のために貢献しているのは、自然科学だけではなく、工学もまたしかりである。むしろ、工学の方が直接貢献しているのではないか。ただ直接貢献しているが故に、経済的メリットを受け商売につながり、ノーベル賞を与えなくても技術が注目されるということであろうか?

また、そもそもダイナマイトの発明者のノーベル氏にふさわしい安全賞もしくは安全工学賞というのがあっても良いのではないか?安全は、重要と言われつつも中々経済的メリットと結びつきにくく、発展するためには、いくつか壁を乗り越えなければならないような気がする。そのためにも将来ノーベル安全工学賞ができることを望む。

第127号 安全・安心

飯塚 義明 <有限会社 PHAコンサルティング> 2010年11月8日掲載
「安全・安心」はここ数年いろいろな場面で目にし、耳にもする。
食の安全・安心、社会不安に対する安全・安心願望が代表的である。最近、化学プラントの安全・安心と言うフレーズを見たときに前の二つの使用例に対して何か違和感をもち、ある種の不安感をもった。安全は、加害要因と被害要因との相対的な科学的事実であり、安心は個人又は集団の気持ちのあり方である。安心感をもつのは、被害者となる可能性をもつ側の心情であり、加害者となる可能性がある側がこの安心感を持つことは、油断という非常に危険な状況を潜在させることになる。安全=安心という勘違いの例として、化学プラントと離れるが、35年前、北海道の畑の中を通る国道のドライブしたときのヒヤリハットを思い出す。未舗装ながら直線で周辺に人影も無く、安心して漠然としたおしゃべりしながらハンドルを握っていた。そこに突然、エゾ鹿が数頭森から駆け出してきたので、想定外のこともあり、慌てて急ブレーキを砂利道で踏んでしまった。かなり横滑りしたが、幸い畑に落ちることも無く事なきを得た。まわりに見える事実だけで危険な状況にないと勝手な判断が一つ間違えば、同乗者も巻き込んだ重大事故に発展する可能性があった。あらゆる化学プラントは本質的に重大な保安事故につながる危険な要素が潜在している。地域住民や事業所関係者が安心して過せるように、それぞれのプラント担当者は、見かけの安全状態に油断することなく、堅実なプラントの運転を継続することを切に望むものである。

第126号 組織文化の効用!

高野 研一 <慶応義塾大学> 2010年8月18日掲載
事故を減らすためには、何が必要か、日々安全担当者は頭を抱えているかも知れない。
事故防止には職場に潜むリスクを直接減らす努力も必要であるが、ここで回り道かもしれないが、リスクを見出し対処するのは人間であることをもう一度考えてみたい。

我々が取り組んでいるのはいわゆる「安全文化」であり、リスクの減少に直接寄与するものではない。しかし、経営者から管理者、そして従業員まで、安全に関する価値を共有し、安全活動に魂を吹き込む効果が期待できる。

すなわち、安全活動や小集団活動を活発にし、コミュニケーション豊かなモチベーションに満ちた職場環境を創造していくことが目標である。これにより、あまり活発ではないリスク低減活動に自ら問題意識をもって取り組む効果を期待している。

また、命を守ることの意義と使命感を経営者にも共有してもらい会社全体でその理念達成を目標に自発的に進めていく環境を期待している。このような職場環境は事故防止だけではなく、生産性向上にも必須の要素である。

第125号 "安全の反対"を考えると見えて来るものは

松倉 邦夫 <安全工学会 事務局長> 2010年1月20日掲載
はじめるにあたり簡単に自己紹介をさせていただきます。
私は37年間、三共化成工業株式会社(現 第一三共ケミカルファーマ㈱)に勤務し、工業薬品、医薬品の原薬・治験薬などの技術、製造、環境安全部門に携わってきました。とりわけ苦労したのは、最後の職場となった環境安全部門でした。

技術部門では自分が或いは自分の目の届くメンバーに対して気を配って入れば済んだのですが、環境安全部門の守備範囲は、全工場の従業員さらには協力会社、出入りする業者の方々までが対象となりますので、それは気の休まることはありませんでした。またその中には、静電気に起因した出火事故や研究所の連続運転中の深夜のボヤなどと今改めて思い返しても溜息が出る日々でした。

会社生活で一番長かった技術部門は、約18年で会社人生のほぼ半分を過ごしました。業務は、研究部門で基礎合成を終えたフローを引継ぎ、コルベンスケール(500mL~10Lサイズ)、中量試製スケール(~500Lサイズ)そして、現場へと繋いで行き、現場製造が上手く行き落ち着くか、落ち着かないかにまた、次のテーマが始まる・・・、そんな生活を思えば18年間近くして来た訳です。

結局は、上手く製造が動いてホッとする間もなく、次のテーマが始まることから、頭の中は何時でも宿題だらけの、これまた思い返せば因果な仕事でした。でも、現場が予定通り動いた時には、一時ですが山行で言う山頂に立った爽快な思いでした。きっと世の技術・研究者は皆様同じ思いで日々を送っていることと思います。そして、それぞれのテーマには、何かしらの"峠"がありました。生産ベースに乗る収量(収率)に到達しない、製品の品質が規格をクリアーしない、現場で生産出来る操作性にならない、再現性が低いなど色々とありました。

幸いと言うか、私は電車通勤時間が片道1時間半以上ありましたので、電車の中は宿題を整理するのに格好の時間でした。"峠の先が見えない時"は、夢の中まで悶々とした日も何度もありました。

特に苦しいのは、生産日程が確定して、設備の新設や変更がどんどん進み、医薬品評価のphase(フェーズ)1,2,3とステップが上がるのに、"峠"がクリアー出来ない時は、最悪の精神状態です。反応条件を変える(但し、変更する範囲の制約があります。当初提出したサンプルと大幅な変更をすると、再度同等性の評価をすることになるので・・・)条件を模索する訳ですが、ある日、開き直りと言うか、苦しまみれにB型の私は、突拍子もない発想をしてみました。

それは、例えば"収量(収率)"が採算ベースに乗らなかった時、"もっと、収量が悪くなる方法はないか?"と言うことでした。何時でもメモ帳を持っていましたので、どうしたら、収量を悪化させられるかを色々と書き連ねてみました。そうしますと、悪くする方向のことは意外と思い浮かびます。

例えば、反応温度を高くする、撹拌を遅くする、触媒量を減らす、副原料のモル比を下げる、中間原料のグレードを下げる・・・・、そんな反対のことを書いたメモを眺めて、その反対のことをして行けばもしかしたら、収量向上の道筋が見えてくるのではと思い、次なる反応検討をする項目を探して行きました。

環境安全部門において、後半もっとも力を入れたのが安全教育でした。ある日、講習会で交通安全と絡めた安全の話をしました。私の講習は対話型で、先ず皆に「どうしたら車の交通事故を無くせるか?」と言う問いを出しました。皆は、制限速度を守り、信号を守る・・・、と出て来たところで答えが止まりました。

そこで、次に「どうしたら車で交通事故を起こせるか?」と問うと、皆、目を輝かせて答えがどんどんと出て来ました。制限速度違反をする、信号を守らない、携帯電話をしながら運転する、大きな音で音楽を聴きながら、車線変更をウインカーを出さないでする、急加速する、急ブレーキを踏む、片手ハンドルで運転する、ハンドルを持たないで運転する、高速道を逆走する、お酒・ビールを飲んでまたは飲みながら運転する、一時停止を止まらないで交差点に入る、一方通行を逆走する、踏切を一旦停止しない、自転車や歩行者の横をすれすれに通る、景色を見ながら運転する、カーナビを改造してTVを見ながら運転する、新聞を読みながら運転する・・・。 そして講習会の最後に私からの一言は「今皆が言ったことの"反対のこと"をするのが"交通事故を無くして行くこと"です。」

"安全確保することばかり教える"より、"こうすれば事故を起こせること"を考えて貰い・・・、そこで再度、その反対のことを考えると、案外"安全"が見えて来るかもしれません。ご安全に。

第124号 化学事故と安全操業への経営者の責任

若倉 正英 2009年11月5日掲載
21世紀に入っても化学物質による大事故が発生し、
市民や事業所周辺の環境に甚大な影響を及ぼす事例も少なくありません。
重大事故は機器故障や腐食劣化などの設備要因、人的過誤などが直接要因とされますが、その背後にある組織や人の意識の要因を掘り出すことが重要であるという認識が高まっています。特に、2005年に発生した英国石油の 米国Texas製油所、 英国 のBuncefieldの油槽所での事故はいずれも、経営者の利益優先に起因する運転員の質の低下が事故の要因となったと指摘されました。2008年にはイギリスでHSE(イギリス健康安全庁)主催の経営トップの在り方に関するセミナーが開かれました。また、OECD環境部門が策定した2009 - 2012年の化学安全に関する活動プログラムでは、化学事故防止に対する企業経営層の役割についての課題も含まれることになりました。これを受けて、第19回(2009年10月)の Working Group on Chemical Accidents (WGCA) で、本課題に関する分科会の設置が決定され、WG議長(ドイツ)から日本の参加が要請されています。

安全工学会でも産業の安全は経営者の姿勢によるところが大きいという認識から、トップマネージメントに関する安全教育セミナーを平成18・19年度に実施しました。現在この活動をさらに進めるための検討を行っています。会員各位のお知恵と協力を仰ぎながら、実効的な方向を模索していきたいと考えております。

第123号 残留リスクと危機管理

大谷 英雄 <横浜国立大学大学院環境情報研究院> 2008年9月19日掲載
まだ私自身の理解が混乱している面もあると思うが、以下は頭を整理する意味で書いてみたものである。
残留リスクとは、リスクアセスメントの結果として予想された好ましくないリスクを低減した後に残るリスクのことであり、リスクマネジメントにおいては、残留リスクが受容限度内であることが求められる。費用対効果を考慮して受忍限度内で低減対策を終了することもあるかも知れないが、これも含めて、ここでは受容限度と表現している。残留リスクが正確に見積もられていないならば、これが受容あるいは受忍限度内であるかどうかの判断はできない。したがって、残留リスクが正確に求められていることが必須である。

はたして残留リスクを正確に求めることは可能だろうか?リスクとは我々を取り巻く環境が複雑系であり、すべての要素の因果関係を正確に見積もることが困難であるので、我々がコントロールできる要素、および認知可能な要素に変動が生じるために生じるものである。つまり、リスクとは因果関係を正確に見積もることが困難であるために生じる概念であり、未知の要因・因果関係が残っている可能性を忘れてはならない。たとえば、化学プラントで言えば、いつ配管に穴が開くかが分かれば、その前に配管を取り換えればいいので、配管内の流体が漏えいするリスクは存在しない。しかしながら、配管を取り巻く状況により腐食の進行度合いは異なり、いつ穴が開くかという時期に変動が生じるためリスクが発生する。この他にも、隣接地域での工事等に使用する重機が接触する、大雪で高所に降り積もった雪の塊が落下する等により配管が折れ曲がり、破断して漏えいするという事故も実際に発生しており、このようなハザード要因も現実には存在している。これらを本当に正確に予想できるのだろうか?

リスクアセスメントは未来予測であり、我々が未来に起こり得ることをすべて予測できるのでない限りは、必ず予測できていないハザード要因があるはずであり、残留リスクを正確に見積もることは不可能である。それでは、リスクマネジメントは不可能なのであろうか?リスクアセスメントは、実施者の知識内でしか行えないものであるから、実施者一人一人ができるだけ多くの知識を蓄え、アセスメント実施の際に活用できるようにするとともに、いろいろな知識を持った複数の実施者で行うことが望ましい。こういう努力を払った上でも予測困難なハザード要因が残っていることを想定しておく必要がある。残留リスクは正確に見積もれないかもしれないが、合理的に説明できることについては、できるだけ広範囲に検討し、予測範囲内では正確に残留リスクを算出する。その残留リスクが受容限度内であれば、合理的なリスクマネジメントはできていると考えるべきであろう。

予測できていないハザード要因に対しては、それの発現確率を下げるような直接的な対策は困難である。安全文化の構築のような間接的な対策で、ある程度は下げることが可能かも知れない。つまり、このようなハザード要因は通常のリスクマネジメントの対象にはならないことから、これへの対処は危機管理の範疇となる。予測できていないのであるから、予め対応策を検討しておくことはできず、ハザードが現出してからそれへの対応を図る必要がある。なお、危機管理とリスクマネジメントを同じように使っている人もあるが、リスクマネジメントは予測が可能なことを前提としており、予測が可能な範囲では危機に陥らないようにマネジメントすべきである。

ここのところ食品の偽装に関して危機管理という言葉が使われるが、偽装が発覚した場合に企業の存続が脅かされるような事態になることは容易に予測が可能である。また、偽装の事実を永久に隠匿できないことも予測の範囲内のことである。したがって、このような事例はリスクマネジメントができていなかったと見るべきで、リスクマネジメントに多大な努力をしている企業の危機管理と同列に論じるべきではない。

第122号 事故情報をどう活かすか

板垣 晴彦 <(独)労働安全衛生総合研究所> 2008年2月18日掲載
ガス湯沸かし器やシュレッダーでの製品事故などが契機となって昨年5月に消費生活用製品安全法が改正された。
この改正とともに製品評価技術基盤機構のホームページ上にて製品事故の情報が公表されるようになった。新聞を中心にリコール広告がほぼ毎日掲載されるほどだから、事故情報となるとさらに多いだろうとは思いつつ最近のぞいてみたところ、なんと1万8000件近くの事故情報が待っていた。事故調査が進み解析をある程度終えたものから順次登録されているようなので、1996年ごろから2006年3月までの10年分だ。なお、最新の事故情報は速報の形で別に公表されている。

さて、これだけ件数が多いとページをめくる形での掲載や閲覧は大変なので、さっそく提供されている検索機能を使ってみた。「火災・火事・発火」で検索すると約5600件、「破裂・爆発」では約1000件、「墜落・転落」では約250件、「はさまれ・巻き込まれ」では約100件という結果だった。「火災」が特に多くなっている理由のひとつは、何がどのように危険なのかを漠然としか知らなかったり、気にかけていなかったりすることがある消費者の安全のために、製造事業者や消費生活センターが積極的に事故を報告していることや、製品評価技術基盤機構側も情報収集に力を入れていることが挙げられよう。また、法律改正のいきさつから、ガス湯沸かし器などの燃焼器具と家庭用電気製品が全事故情報の約2/3を占めていることもその要因と思われる。

事故情報のそれぞれには、1~2行の簡単なものではあるが、事故の内容も記載されており、さらに原因についても分類がなされている。その分類結果によると、消費者の不注意や誤使用などが約6000件と多く、製品に起因する事故は約4500件だった。ただ、原因不明や調査中のものが合わせて6000件以上もあった。詳細な情報をしばしば得にくいことや件数が膨大なことのためわからなくはないが、少々気になってしまう。

ところで、産業災害の統計は長く続いているが、対象としている事故は、その事故によって死亡するか、あるいは、病院での治療が必要となるようなある程度以上のケガを負った事故、また多くの場合にその作業には危険があることを事前に承知していた中で起きた事故、である。このため、両者の発生件数などを直接比較することには、ほとんど意味がないが、事故情報の分析の手法や考え方は応用できそうだ。一方、一般消費者が陥りやすい誤使用や不注意を分析することが、産業現場での事故防止対策のヒントとなるかもしれない。もちろん、製品の設計や品質管理に関する問題は、産業現場にもあてはまるだろう。一般家庭と産業現場では、作業目的、作業環境、安全意識も異なるから、表向きの事故原因は異なるように見えているけれども、根本的な原因は似通っているものと思うからである。

第121号 世界に依存している我が国を再認識して

今泉博之 <(独)産業技術総合研究所> 2008年2月4日掲載
冷凍ギョーザから殺虫剤成分が検出された事件についての報道が続き、その被害が徐々に拡大する様相を呈してきた。
最初に報道された薬剤のみならず、新たな薬剤も検出されたとか・・・。昨今殺伐とした事件が頻発する中、何が起っても不思議ではないと思ってはいるが、「食べ物から殺虫剤成分が・・・」となれば、やはりショッキングと言わざるを得ない。また、身の回りに輸入品が実に多い状況を鑑みると、「一体どうなっているんだ」というのが率直な気持ちであり、とにかく真実を知りたいところである。しかし、我が国の情勢を考える時、これに類する事象は今後も発生するのではないかと思う。

我が国は国土が狭いこともあり、いわゆる"資源"に恵まれているとは言い難い。

例えば国内で消費する一次エネルギーの自給率は、原子力を含めた場合で20%程度、原子力を除くと約4%である[1]。1970年代の2度のオイルショックを経て石油への依存を少しずつ是正し、現在ではその依存度が50%を下回る水準となったものの、他の主要国に比べれば高い水準と言わざるを得ない。今も昔も、我が国の生命線が石油であることに変わりはない。

食料についても類似した状況である。世界の主要国で十分な食料自給率を有する国は多くないが、我が国の自給率40%(正確には総合食料自給率)は最低水準であり、その上漸減傾向にある[2]。何とも心許ない。

ところが、我々は日常生活の中で食物などに "量的な不満・不安"を実感する瞬間がどれだけあるだろうか。筆者はというと、ほとんどない。多くの人がそうではないかと思う。これは、世界中から物資が潤沢に供給されているという有り難い状況の証であるが、そこでの物の売り買いは経済性(価格)が最優先され、勢い"質的な要求(安全性など)"は置き去りに成りがちではないか。我々の日常生活はこの状況の上で"支えられている"のである。今回の事故の背景に、この構図が透けて見える気がする。

昨今の世界情勢は少しずつ緊迫あるいは悪化していると思われ、未来永劫、潤沢な物資の供給が続くとは考え難い。この変化は我が国の国勢に間違いなく深刻な影響を及ぼすし、特に食物やエネルギー等は国の基盤を支える物資であるため、"経済ではなく安全保障"と捉え対処すべきである。こんな当たり前とも思える事が、今回のような事件に遭遇するたびになぜか気になって仕方がない。

参考資料
 IEA, Energy Balances of OECD Countries 2000-2001 (2003).

第120号 安全教育としつけ

鈴木和彦 <岡山大学> 2008年1月21日掲載
私の研究室名は「高度システム安全学」である.この名に示すように,大学の内外に「安全」に関する研究と教育をすると宣言している.
しかし,最近思い悩むのは,「安全教育」として,学生達に何を教授したらいいのかである.システム安全工学として,理論,手法を学ぶことは必須であるが,「信頼性工学,危険評価手法,安全管理の基礎・理論を講義で教授すること」=「安全教育」とは言えない.昨今「安全文化の醸成」の必要性が唱えられている.「教育」により,若い学生達に,「安全」の重要性を意識させ,「安全意識・知識」を身につける助けをしたいと思っているが,なかなか実現は難しい.

ところで,「安全教育」と「人の命」であるが,新聞紙上,毎日のように悲惨な事件が報道されている.ほんの一部の人達によるものとしても,人の命に対する意識が薄れているようで気がかりである.最近の若者(一般大学生)を観ても挨拶ができない,お礼が言えない等々であり,結構マナーも悪い.どうも一般的には倫理観に欠ける学生が増えているような気がする.また,ゲーム感覚で生きている学生を多く見かける.

しかし,1年間研究室に所属し,教員,先輩学生とつきあう内に徐々に学生達は変化をみせる.ゼミ等で安全研究についての議論をしながら,「しつけ」も同時にしていることの成果かもしれない.学生達は,結局「教育」「しつけ」により変わる.社会,企業においてのこのような努力をしなければならないのが現状であろう.

学生達(若者)には,うっとうしがられるのを覚悟で,これからも「安全教育」「しつけは」地道に続けるつもりである.

「安全意識・知識」を持ち「人の命」の尊さを常に考えながら行動できる若者を育てることができればと思う.

第119号 駒宮先生のファイル

辻 明彦 <NPO法人・災害情報センター> 2008年1月7日掲載
昨年11月、日本の労働安全、安全工学に多大な貢献をされた駒宮功額先生が他界された。
古今東西の事故事例に精通され、私どもの初歩的な質問にもいつも丁寧なお答えを頂戴した。ある時、都市ガスの事故についてお尋ねした折、これを見るようにと1つのファイルを渡されたことがあった。その中には、都市ガスの性状に関するデータ、事故の新聞切り抜き、内外の論文などがまとめて保存されていた。

先生は、当センターの会誌に毎月欠かさず安全に関するコラムを寄稿して下さっていたが、そのテーマは高圧酸素の事故から温泉地の硫化水素事故、さらには動物による交通事故まで多岐にわたっていた。先生はそれぞれのテーマごとにファイルをお作りになっていて、ご研究や原稿作成の糧とされていたようだ。

先生が2001年に中央労働災害防止協会から上梓された「技術発展と事故―21世紀の「安全」を探る」は、それらのファイルも活用しながら長年にわたる事故調査と実験研究の成果を読みやすく集大成されたものだ。技術の発展やエネルギーの変化、日本と海外の風土の違いなどから独自の史観で事故の変遷を俯瞰されたもので、今日、このようにしてライフワークを世に問う安全研究者は極めて少ない。この本の中で先生は、明治以来日本は、欧米の技術を事故や失敗の多大な犠牲の末に安全が確立した段階になって導入することができ幸運だったと指摘されている。安全の技術や基準の多くを欧米に頼る状況は今日でも基本的に変わりなく、技術史から事故を見る先生の視点はこれからも重要である。

私は、駒宮先生が遺された膨大なファイルや書籍の整理・活用の仕事に縁あって参加させていただくこととなったが、故人の方法論を引き継ぎつつ活用の道を探りたいと思う。

第118号

古積 博 2007年12月10日掲載
今秋、中国、韓国を訪問する機会があった。小生、両国とも過去数10年の間にそれぞれ数回ずつ訪問しているが、ここ数年の両国の変化の大きさには目を見張るものがある。また、その活気には圧倒される。
日本には、長年、「世界第二の経済大国」という枕詞が与えられてきたが、昨今の中国の発展と日本経済の沈滞のために残念ながらこの枕詞を返上する時がやってきた。一方、安全防災の面でも日本は長年世界の中でも高いレベルを維持してきたが、これも中国、韓国に追いつかれつつあるように感じられる。これは、国際的な雑誌での中国や韓国の論文の掲載数の増加をみても判る。

日本が世界の安全防災の面で引き続き、世界のトップランナーの立場を維持するためにどうしたらよいのか、考えさせられる。我々、研究者は、先ず第一に、引き続き、地道な研究を続け、成果をできるだけ発表するべきであろう。また、国際会議に出席するなら出来るだけ発表したいものである。外国の研究者と交流する時、ギブアンドテイクでないと続かない。研究発表の質は最も重要だが、数も大事であろう。研究者は、利害が絡まない場合、研究成果に対しては、公平である。日本からたくさん発信していれば思いがけない好意的な反応があるかもしれない。他方、成果を基に社会に貢献して安全工学研究の認知度を上げ、その重要性を理解してもらうよう努力したい。他方、安全工学会は日本の安全防災研究の司令塔なわけで、我々の研究の高さと重要性を国内外の社会に理解してもらうようサポートしていただけるとありがたい。また、我々はどうしても視野が狭いので社会のニーズを取り込み、研究の方向性を示していただけたらありがたい。

国際化がはやりだが、我々は日本人であり日本がベースである。日本の存在感が無くなるのはさびしい。

第117号

熊崎 <(独)労働安全衛生総合研究所> 2007年10月15日掲載
少し前の話ですが,某大学で実験後の廃液処理中に,学生が化学薬品を混合させた結果やけどを負った,という事故がありました
報道等によれば,幸い,症状も軽く大事には至らなかったようです。聞くところによれば,この実験が行われていた研究室の専門は化学ではなかったそうです。

ある種の化学薬品は混ぜただけで急激な反応を起こして危険な状態になる,ということは化学安全に携わっている人ならご存じの事です。しかし,その危険性はどれだけ知られているのでしょうか?上記の事故も,学生はその事実を知らなかった・気づかなかった可能性があります(化学の研究室だったら起こらなかった,とは言えませんが)。
逆に,化学の実験室で起こった感電やポンプの巻き込まれなどは,電気安全や機械安全の専門家からすれば「なぜ気づかなかったのか?」と思われる事故であるでしょう。

多くの分野にまたがる複雑な作業に日々追われていれば,何処にどんなリスクがあるか,自分の専門分野でなければなかなか見えません。しかし,それをよしとするのではなく,常に自分の行っている行動に危険性があるのではないか?という「疑いのまなざし」と,専門外の情報や自分とは関係のないと思える事故情報にも「アンテナ」をたてて自分の業務に役立てるどん欲さが重要なのではないかと思う次第です。

第116号 「コミュニケーション」と情報技術

仲 勇治 2007年9月25日掲載
ISOの標準化に参加したことがあったが,そこでの会議の進め方と日本における同様の会議の進め方が全く違うのに驚かされた。
まず,両方とも議事次第が用意されるが,向こうは,項目やそれらを議論する順番に結構時間を費やし,その日に議論し,決めたい事項を明確にしていく。日本では,議事次第の中に委員長挨拶などから始まり,項目や議論の順番などの議論には時間を割かないことが多い。どうも,向こうは参加者のバックグラウンドは異なるのが当然であり,その違いを旨くかみ合わせることで広い観点から議論しながら素目標に向かって議論をする意図を持っていた。一方,日本流は,会議の主催者側の意向表明があるものの必ずしも十分でなく,参加メンバーが意向を徐々に理解しながら,意向に添って議論を進める場合が多い。 
どちらが旨いコミュニケーションの取り方であろうか? 
もっと驚いたことは,書記の能力の高さである。委員の話をコンピュータに打ち込み,それも色分けして。休憩の10分前に,同色を合わせながら,議論の中間のまとめを作ってしまった。利用者の能力が高ければ,もの凄いコンピュータのパワーを引き出せる。 コミュニケーション手段としてコンピュータはもはや必須である。

安全技術に関わる設計や運転標準などの図書は,過去に行われた設計で考えていたことを表現している。今それらを見ている人達は,当時の設計に関わった人達と交信していることになる。しかし,必ずしも交信がうまくいっていないことは,団塊世代の退職に伴う技術伝承問題として表面化している。

コンピュータのパワーを用いて,何処まで論理的に,多角的に,安全管理を支える技術として整備できるのであろうか。

第115号 安全な設備とは?

和田
燃料電池自動車普及に関連するある事業に携わっています。燃料電池自動車が普及するためには水素ステーションが必要です。
様々な安全性の評価を行い,規則が改正され,水素ステーションが設置できるようになりました。しかし,安全を確保するためにかなり広い敷地が必要とされます。燃料電池自動車が普及するためには市街地にも水素ステーションが設置できるように水素ステーションをコンパクト化する必要があるといいます。そのために,水素ステーションで高圧の水素を貯めておく容器を地下に設置できないか検討することになりました。すでに安全対策もいろいろと考えられています。設備そのものは,規則に則り,まず水素が漏れることがないように作られます。それでも,万が一の水素漏れに備えて,警報設備を設置し,水素が漏れても溜まることがないように,24時間故障のない換気装置で換気します。たぶん安全な設備ができると思います。でも,本当に大丈夫でしょうか。

以下はあくまで「最悪の」想定です。この安全な水素ステーションに勤勉な運転員が働いていたとします。営業をはじめて数日後,近所の住民から「換気の音がうるさいからなんとかして」という苦情がきました。勤勉な運転員は設備が安全なことを良く知っています。警報設備もあります。苦情のために営業を止めることはできません。とりあえず,換気装置なら止めてもいいか,と思うかもしれません。24時間故障なく動くように設置された換気装置はこうしてムダになってしまいます。そんなバカな,と思われる方に以下の渋谷の温泉施設爆発に関する情報を紹介します。

温泉施設の温泉くみ上げ施設では,開業当初は発生するガスを排気管を通して直接外に放出する仕組みになっていたそうです。ところが,くみ上げポンプの音が排気管から外に漏れ,周辺住民から苦情が寄せられました。そこで排気管を隣の部屋の換気扇まで延ばしたというのです。報道情報なのでこれ以上の詳しいことはわかりませんが,住民の苦情で当初の設計は簡単に変えられてしまいました。

第114号 安全のイメージ

安田憲二 <(独)国立環境研究所>
廃棄物の処理では,取り扱い物の組成が不均一で変動が大きいため,
安全への対応が原料から製品を作る場合とは違ってきます。
廃棄物処理施設を建設する場合,許可等を受ける過程で住民の意見が重視されますので,個々の住民が持つ「安全のイメージ」が施設の内容に大きな影響を与えます。

廃棄物の中間処理施設の建設では,環境負荷に関して環境基準に基づく排出基準値の順守が求められます。施設の内容は,当然それに対応したものになりますが,多くの場合,排出基準値の数分の一から1/10程度の厳しい値に設定されています。処理施設が建設される場所は地域性に違いがあるため,周辺環境により基準値よりも厳しい値を設定する必要のある施設もありますが,地域性に関係なく,一律に値を設定するケースも少なくないように思われます。

「安全のイメージ」はリスクマネージメントに属する領域ですが,不必要に厳しい値に対応した施設を建設した場合,建設費や維持管理コストの増加や,資源の無駄遣い,地球温暖化への負荷を高める原因にもなります。自治体等は住民との論争を避ける傾向にありますから,不必要とは感じつつも過剰設備の施設を建設しがちです。

地球温暖化の影響が抜き差しならぬ状況である昨今,専門家も交えて「安全のイメージ」をより客観的なものにし,過剰設備を無くして資源の無駄遣いや地球温暖化への影響を軽減するための努力が必要とされているのではないでしょうか。皆様はいかがでしょうか。

第113号

渕野哲郎 <東京工業大学>
昨日,アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスで高速道路の橋梁が崩落した。
まだ行方不明の人が何十人もいる現在,一人でも多くの方の生存発見を祈るばかりである。
それにしても,日本に限らず,世界中何かおかしいのではないだろうか?本当のところはわからないが,新聞やネットニュースが伝える限りでは,この橋は1967年開通で,1990年すでに接合部の腐食,劣化による亀裂が見つかり「構造上の問題」が指摘されていたが,2005年2006年の検査で,亀裂の進行の拡大がないことを理由に,重量制限なしの継続使用となったとのことである。また,1950年代,60年代の橋は構造上の問題が多いことや,全米で7万箇所以上の橋が同様の問題を持っていることを伝えている。

「わかっていたんじゃない」と言いたくなるし,継続使用を判断したときの根拠,設計強度と当初想定交通量に対し,交通量が激増した段階での余寿命をどう推定したのかなどなど,懐疑的な目で見たくなる。「結局,事が起こらないと対処しない」ところは,どこも同じかと思わざるを得ない。日本では,柏崎刈羽原発の問題,ジェットコースターの事故,エレベータの事故,湯沸かし器の事故,トラックのハブ設計強度不足の問題に,加えて隠蔽・・・・「やはり重要なのは,安全文化(Safety Culture)なのかなー?本当は,エンジニアの要件なのに・・・」とぼやきたくなるのは,私だけ???

第112号 電車の信頼性に赤信号?

藤田哲男 <東燃化学(株)>
奇しくも,2年前にセーフティー・はーとに投稿した際も,
JR宝塚線での電車脱線事故の直後でありましたので,これを話題にした内容を書かせて頂きました。
最近も,またまた,鉄道関係の事故が非常に多いように感じます。特に,非常に長時間にわたり,且つ多くの人々に影響を与えたと言うことでは,(1) さいたま市でのJR高崎線の架線切断事故と,(2) 都営地下鉄浅草線三田駅近くでのケーブル火災事故が挙げられます。これらも,前回で書かせて頂きましたのと殆ど同様に,結局プリミティブな原因が主であり,(1) については,停止位置を守らなかったこと,(2) については,マニュアルの不備があって対応方法が周知されていなかったことのように集約されるように感じました。リスクをどこまで,把握していたかどうか,詳しくはまだわかりませんが,十分防ぎ得ることであったと思います。いずれにしても,大きく信頼性を損じたことは否めないと思います。

局面は違うのですが,自身も,夜遅く会社から帰宅する際に,JR東海道線で約1時間半も缶詰めにされて,うんざりしたことが記憶に新しいものです。前を行く電車が,線路内に何者かが侵入した後,接触したかどうかで,その救出作業に手間取ったとの説明であったように思います。先日も,東海道新幹線で,同種の事故がありました。これは,JR東海社員の自殺によるものであったようですが,運転再開に多くの時間を要したと言う点では共通するものがあったと思います。つまり,リスクを如何に把握し,その対応方法をどこまで検討しているかと言うことではないでしょうか。ただ,いたずらに安全サイドに時間をかけて良いということではないと思いますので,当然のことですが,如何に迅速に対応するか/できるかと言う視点で取り組むことが,信頼性を上げることに非常に大事だと思います。

初心に帰って,改めてリスクマネジメント・アセスメントの大事さをマネジメントがきちんと把握して,リーダーシップをもって,臨むことが肝要と思った次第です。

第111号 安全構築の大障害となる“ズルズル感”

野口和彦
事故や不祥事が繰り返される状況を見るにつけ,ため息がでるのを禁じえない。
最近話題の牛肉に豚肉を混入させていた事件にしても,あの会社は本社を同じ北海道に置く乳製品会社のトラブルを見ていたはずである。それにもかかわらず食品業界において重要な案件である材料をごまかすといった行動が修正できなかったことは,安全向上に携わる身としては,何とも言えない無力感を感じずにはいられない。

このような事が繰り返される限り,安全社会などいつまでたっても実現されるわけがないのである。しかし,嘆いてみても仕方が無いので,先輩達がこの虚無感を乗り越えられてきたように,何とか前進する方法を考えてみたい。

何故,失敗を繰り返すのか?この問いに対する答えは,もちろん一つではないし,正解があるのかさえ定かではないが,なにやら“ズルズル感”が,その原因の一つであるような気がしてならない。

“ズルズル感”の正体とは,何か?

それは,「ま,いいか」,「もう少しの間だけこのままで」,「この程度までは・・」という感覚である。

規則通りに実行できないことは,間々ある。その時に,つい「この程度の違反なら良いか」とか「後1年くらいこのままで,その後何とか改善しよう」というように自分に言い聞かせながら,今日も同じ過ちを繰り返すということがないであろうか?

改善を後回しにして,現状を肯定していく。このような行動が,事故を誘発し,不祥事を引き起こしているような気がしてならない。

もちろん,私にもこのような経験はある・・というより頻繁に経験しているといったほうが良いかもしれない。

だから,悩むのである。このままでは,日本が危ない。どこかで気持ちを切り替え,背筋を伸ばして子供達に胸を張って働く姿を見せられる,そんな大人に戻ろうではないか。

どうでしょう,皆さん。

第110号 安全のタテとヨコ

坂下 勲 <坂下安全コンサルタント事務所>
安全を丸ごとでなく,漁網にならって,タテ糸とヨコ糸に分けてみる。
タテ糸は,安全法規・技術情報・事故事例あるいは企業倫理など,安全の構造を支える分野。まとめて,「標準安全」と呼ぶことにしよう。本来は,経営や本社の管理部門が担当する事項である。

一方,ヨコ糸は,安全教育・作業マニュアル・品質管理・設備保全など,危険と直接向かいあっている現場での具体的な安全実務で,「個別安全」と呼ぶことにする。このタテ・ヨコは適宜決めればよい。

ところで,もし魚網が,タテ糸だけだったらどうだろう。糸がぶらぶらして,すきまが開いてしまうため,魚を捕まえるのは難しくなる。ここに,一本のヨコ糸が絡んでくると,タテ糸は拡がることなく,魚を捕えられる。ヨコ糸の本数をもっと多くして網にすれば,十分に機能を発揮できる。相互補完による両機能の向上効果である。

安全でも同様に,「標準安全」と「個別安全」の双方の糸が相互にしっかりと連携補完しあって,はじめて期待される安全が実現される。

コンプライアンスとか企業倫理とかの,難しそうな話は,総じてタテ糸・「標準安全」に属する問題が多い。危険に直接向かい合っていないスタッフが担当しているせいか,対応が抽象的・精神論的に偏り,抜けや落ちが発生し易い。

一方,危険と直接向かい合っている現場では,さぞ毎日緊張しているかと思いきや,設備の高性能化や自動化が進んで危険が直接見えなくなり本社サイドと同様,とくにヒューマンファクタの問題を多く抱えている。

タテ・ヨコの安全の糸がうまく絡み合った相乗効果の発揮,そのための安全教育の充実が期待されるゆえんである。

安全文化。いろいろな言い回しがあるようだが,タテ糸とヨコ糸が華麗に織りなす織布の縞や絵柄の模様に例えると解り易いかも。模様がその企業独自のものであれば,本物の安全文化であろう。

マスコミ報道される不祥事や事故トラブルの類も,タテ糸とヨコ糸に分けて眺めて見ると,少しは問題の核心が見えてくるのではないだろうか。

第109号 本質を看る

西 茂太郎 <練馬区在住>
ひょんなことから料理研究家の辰巳芳子氏の講演を聞く機会に恵まれました。「最近は独りで料理することも増えたので・・・・」と軽い気持ちで出かけました。
氏の手になるスープは過日NHKの番組で放映されたこともあって特別な物であるという事は知っていました。氏はお母上で料理研究家であった浜子氏から薫陶を受けられたが,「母からは料理は教えて貰わなかった。『気なしに物事をしては駄目だ』といつも言われた。」とのことだった。「きゅうりを一つ刻むのでもきゅうりの本当の美味さを引き出す切り方を求められた。いつも本質を追求する姿があった。本質を追求するとは『○○とは何か』と問い続けること。」と。そこには料理家と言うよりも根源的なものを徹底して追求するというまさに研究家という姿がそこにありました。気楽に出かけたはずの講演会がまたとないいい刺激の機会となったのです。

根本分析。なぜ何故分析等など。常に本質を看る眼を持ち続けることが大事なことだと日々の食を通じて知らされた一日でした。

化学分析の結果,氏の作ったスープには,グルタミン酸が多いことが判明したそうです。

第108号 たった1回

中村 順 <科学警察研究所>
粉じん爆発にしても,金属の疲労破壊にしても,安全工学の中で重要事項として,研究もされ,解説書も出ている。それにもかかわらず最近,粉じん爆発やジェットコースターの事故が起こった。
今回の事故は,過去に軽微な事故もあまりなく安全(なように)と考えられていたところに,突然起こったように見えるが,本当にそうだろうか。過去の東海村JCO臨界事故,回転ドア,エレベータ,産業廃棄物に関わる事故等,当事者にとってたった1回の不幸な事故であるかもしれないが,普段の不安全行動と不安全状態の結果と指摘されている。

同様な事故が繰り返し起こり,同様な指摘が繰り返しされることは,本当にこの国は安全・安心になるのだろうかと思う。米国では,東京地下鉄にサリンがまかれた事例を研究し,地下鉄に毒ガス対策をとり,9.11同時多発テロの後,コンビナートや石油タンクに飛行機がつっこんでくることの対策を真剣に議論していた。

まさかそんな事故は起こらないという神話を作っていないだろうか。5年も10年も無事故で操業してきたといっても,たった1回の事故で神話は崩れる。そのたった1回の事故を防ぐために,管理者と担当者が,安全への関心と洞察力をもってとりくみ,それを持続して欲しい。

第107号 技術の伝承と標準化

高木伸夫 <システム安全研究所>
2007年問題がいわれて久しいが2007年も既に5月に入った。現場ではどのような状況なのであろうか。
振り返ってみれば2007年問題がクローズアップされたのはそれほど古い話ではない。安全分野に限らず各産業セクターにおいてベテランの大量引退による技術の伝承が社会的課題となった。しかし,2007年頃からベテランの大量のリタイアが始まるのは10年,20年前から自明のことではなかったのか。なぜ2007年問題なのか。この背景には各種の技術やノウハウが個人に属するという技術の属人性が強く,技術基準やマニュアル類などによる標準化の遅れがその一因にあるといえるのではないか。

現在,様々な産業分野において年齢構成の歪みが指摘されている。三角形からビヤ樽型,更には逆三角形あるいは瓢箪型へと推移してきている。かってはベテランの技術を引き継ぐ次世代の数も多く,また,年齢差も大きくなかったので,ベテランの技術を受け止める余裕を持った土壌があったといえよう。しかし,現在は中堅,若手の数が少ない上,場合によっては20歳も年齢差があるということも珍しくない。技術の伝承は必要であり否定するものではない。しかし,このような環境において30年以上にわたるベテランの経験を短期間にそのエッセンスだけを伝承しようとすること自体が無理といえまいか。多くのベテランが蓄積した技術,技能を若手に託そうとしてもベテランと若いヒトの意識・価値観の違い,若手の絶対数の不足に起因する吸収能力の限界など多様な制約条件があろう。このため定年の年齢を引き上げたりOBの起用などをはかる企業も出ているが,これも一時的な方策であり限界があろう。産業分野においては,かっては目,耳,鼻,手足の多さと現場レベルの技術・技能の優秀さとでもって安全を確保してきたとも言えよう。この土台がくずれつつある状況において安全確保にあたっては安全教育,情報の共有など色々やることが多いが,標準化の推進というソフト面での強化と人手の少なさを補完するためハード面での対策の充実が欠かせないのではないだろうか。

第106号 事故再発防止のためのプロセス安全管理

島田行恭 <労働安全衛生総合研究所>
前回84号にて「同じ事故を繰り返さないために」と題して,安全管理に関わる研究を行っている者としての思いを書きました。
でも,相変わらず類似の事故は繰り返されています。会誌「安全工学」の最新号(Vol.46,No.2)の中で西川氏は「事故調査報告書の多くは,物質や設備などのモノの部分に当てられ,その根本に隠れているヒト(人間とその管理)に関することまで掘り下げられていない」と述べられています。

先日も「粉じん爆発」がありました。粉じん爆発に関する事故は毎年,何件も発生しており,その度にどうしてそのような事故が起こったのか,詳細な原因の推定(現象の解明)が繰り返されています。もちろん原因解析は大事なことなのですが,もっと大事なことはやはり再発を防止するにはどうしたらよいのか?ということをしっかりと検討するべきでしょう。多くの先輩方が事故調査においても「プロセス設計,建設から運転,保全,廃棄に至るプラントライフサイクルに渡るエンジニアリング業務全体の安全管理の問題と,それに関わる人の教育,コンプライアンス問題,外部への説明などの問題にも踏み込んだ再発防止策まで検討することが重要である」と説いています。

同誌Vol.46,No.1の『安全への提言』の中で東工大の仲教授が説明されていますが,プロセス安全管理(PSM)システムは,プロセス産業におけるライフサイクルエンジニアリング全体を安全の観点から管理する仕組みです。事故の原因調査においても,調査を行う人の得意な視点からだけでなく,幅広く,再発防止策を考えるきっかけを作ることができるようなPSMの枠組みに沿った問題点の分析を行うことが重要でしょう。

一般に化学プロセスの安全管理問題は物質(反応プロセス)の安全管理とプロセスプラントの安全管理に分けて議論されています。化学プラントの安全管理に関する研究を行っている方々はどちらか一方の立場を取っているのではないでしょうか。よく言われる物質屋さんとプロセスシステム屋さん。お互いのノウハウをつなぎ合わせ,統合化されたPSMの環境を構築することが今の研究目的です。というのは壮大なテーマ過ぎるでしょうか・・・。

第105号 安全工学会の活動

小川輝繁 <本会副会長>
安全工学会の副会長を拝命して,1年弱になりますので,安全工学会の活動について私見を述べさせて頂きたいと存じます。
安全工学会の活動には,安全工学の学術的振興,会員に対する学術交流の場の提供,情報提供などの会員サービス,安全工学専門家の団体としての社会貢献などがあります。

安全工学会は前身の安全工学協会創設以来,講習会や安全工学誌などによる安全工学の啓蒙・普及や公的機関からの受託研究など社会的貢献に特に実績があり,最近でも多くの方のご尽力・ご協力により大きな成果をあげていると思います。

安全工学の学術的振興につきましては学術論文の安全工学誌掲載,研究発表会の開催,安全工学シンポジウムへの協力などが従来から行ってきた活動ですが,最近では安全工学体系化など安全工学の課題について検討するための研究委員会を学術委員会の下に設置して活発な議論を行っています。また,国際シンポジウムの開催など国際的な活動も活発化する方向で検討しています。

学術活動での現状の課題は安全工学誌に掲載される学術論文の数が少ないことです。これについては学術的に優れた論文を投稿して頂くようにするための方策を考えなければならないと存じます。会員サービスについては安全工学誌やホームページによる情報提供,論文や研究発表の場の提供などですが,さらに会員に満足して頂くための努力が必要と考えています。

安全工学会が多くの方の熱心な支援により,活発な活動ができていますことを非常に感謝しております。

第104号 事故の後始末

岡田 <三井化学>
関東では桜が咲き,何か気持ちが高ぶるのは私だけでしょうか? 入学や転勤,異動などもあり,生活が大きく変わる時期でもあります。
工場などでは,人事異動後,直ぐにトラブルが発生すると【歓迎会】とうれしくない呼び名の現象がありがちなのでみなさんも注意してください。

話は,変わりますが先日あるセミナーに参加して貴重な話を聞くことができたので紹介します。

2003年9月に発生した北海道十勝沖地震で大規模タンク火災を発生させてしまったI社の方が事故の復旧作業について講演されました。 事故については,多くの方がご存じだと思いますが,地震の影響で浮き屋根式タンクの屋根が沈降し,火災が発生。

泡消火剤も風で飛ばされ,効果無く,長期間火災が続くという災害で,後に泡消火剤の備蓄や大型放水銃を導入するきっかけになった意味深い災害でした。

その被災タンク43基の復旧が2年9ヶ月かけて,昨年6月で完全復旧したとのことでした。 復旧作業は,北海道という地域性もあり,冬場は雪かきから始まり,原油の抜き出し,水への置換,その後タンク内に潜水夫の休憩小屋を設置し,潜水夫により脱落部の調査等を行ったというものでした。

復旧作業にあたられた方々の苦労が伝わってきました。 事故を起こしてしまうことは,もちろん良くないことですが,起きてしまったことに対し,いかに反省し,再発防止を行い,ちゃんと後始末することができるかどうかによって,会社の実力が現れるのではないでしょうか?

最近,トラブルが発生しても後始末せず?できず?にうやむやになっていることが多いような気がします。

まずは,災害を発生させないことが一番の対策とは思いますが

第103号

飯塚義明 <(有)PHAコンサルティング>
総合化学会社の開発研究部門で30年間「安全評価技術の開発」と「開発部門や生産部門の技術支援」に費やした。
3年前にこれまでの経験を活かして,他の会社の安全技術(思考方向)向上のお手伝いをしているが,その中で感じたことは,1990年代前半までは,企業間で安全意識に温度差が見られた化学産業界であったが,その後,技術,意識の両面で企業間の差はかなり無くなってきていると思われる。しかしながら,ある化学品加工メーカーの工場幹部と保安安全について議論したところ,その工場幹部から「最近,当工場は全く事故が無く,このような状況下での高い安全意識を継続させることが難しい」と告げられた。この会社以外にも,世界に誇れる安全で,生産性の高い技術が日本の産業界では,活躍している。これらは,今話題の団塊の世代の優れた技術者達がつくり上げた「生産技術」の成果である。これらの技術をどのような形で後世に伝えて行くかが重要な課題である。過去の事故情報や失敗事例のデータベースも有用であるが,他人のことではなく自分達の職場の問題として認識させる手法の取り入れも考慮すべきことと思う。先輩達がどのような経緯をたどって,成功に至ったかを詳細に解析することも一つの方法である。即ち,何故安全が維持されているのか,そこにある技術的要因とソフト的(人,組織)要因との係わり合いを科学的に解明することである。「たまたまの安全なプロセス」にも事故を起さない理屈があることを知ってほしいと思っている。

第102号 安全第一主義 というけれど

若倉正英 <神奈川県産業技術センター>
しばらく間があきましたがセーフティーハートを再開させていただくことになりました。
セーフティーハートは安全工学会の活動を積極的に支える様々な分野の専門家が,“安全・環境問題”にその専門性を基にコメントしていく場です。ご一読いただき,そのコメントに対して皆様からのご意見をいただければ幸いです。

この1年近くのインターバルの間に様々な産業事故,製品事故,偽装問題,コンプライアンス問題などが起きてきました。特に,ガス湯沸かし器の事故では,多くの人命が失われていたことが明らかになりました。企業のトップが従業員,消費者いずれもの命の重さを第一に考えるべきなのですが,安全とは空気のようなものだという思いもします。普段はその存在を全く気にしていないのに,なくなってみると実は大変な思いをするのです。企業の安全部門の方から時折耳にする言葉があります。“上の人は安全第一って言うけれど,会社の中では利益に貢献する部署に比べると,安全環境部門の評価は低いんだよね”。病気になって初めて健康のありがたさを知る,というのと同じで安全は当たり前のことと思われすぎていて,それを維持するために知恵や努力がいることが忘れられているのではないでしょうか。

安全工学会では産業分野の安全に寄与するため,「ヒヤリハットや事故情報を活用して,現場の安全性を向上させるための研究開発(石油産業活性化センター;安全基盤整備事業)」,「産業保安分野における安全文化の向上に関する調査・検討(原子力安全・保安院;原子力発電施設等社会安全高度化事業)などの活動を行っています。これらの事業の直接の目的はプロセス産業を中心とする製造産業の安全ですが,様々な分野に利用可能です。多様な安全専門家が活躍する安全工学会の特長を生かして,得られた成果を広く活用していきたいと考えております。

第101号 水俣病50年に思う

伏脇裕一
今年は,公害の原点とされる水俣病を行政が公式に確認してから,5月1日で50年の節目を迎えました。
思えば,私が学生であった1970年代頃,水俣病に関心を覚え,その原因を究明する過程で,メチル水銀の分析法,食物連鎖,生物濃縮,難分解性化学物質の胎児への移行等多くの貴重な知見を学ぶことが出来ました。公害・環境に関する調査研究の職を求めたのも水俣病問題がその根底にありました。また,この頃チッソ株式会社の一株運動も盛んになり,患者さんは厚生省(当時)やチッソ本社などへの抗議のために座り込みやビラまきを繰り返し行ってきました。これら一連の運動の成果として2004年10月に,最高裁判所は水俣病の被害拡大防止を怠った国と熊本県に対し法的責任を認めた判決を言い渡しました。水俣病の発生から約50年をへて確定したこの判決の意義は大きく,水俣病患者さん達の運動の賜と思われました。患者の高齢化,胎児性患者の将来への不安など解決しなければならない重要な課題が山積しておりますので,国は病気で苦しんでいる原告らに対し医療救済や保障などの必要な施策を早急に取り組むことが必要になってきております。さらに,まだ取り除かれていないヘドロの一部は海に残されております。不知火海域の環境調査も引き続き国の責任で取り組んで頂きたいと思います。

50年を迎える節目の年に,再び水俣病のような惨禍が世界で繰り返されないように,水俣病問題を様々な角度からもう一度見つめ直すことが求められております。

第100号

土橋 律 <東京大学>
2006年新年最初のセーフティー・はーとです。読者の皆様には,本年もよろしくお願いいたします。
建築物の耐震強度偽装が昨年末から大きな問題となっています。これは,安全神話の崩壊にかかわる問題として報道され,安全の関係者には気になる事件ではなかったでしょうか。この事件は多くの問題を含んでおりますが,私なりに感じた点を述べさせていただきます。

まずは,安全に関わるしくみは基本的に善意のシステムであるということです。我が国では,様々な安全の研究や技術の蓄積の上に技術基準や法規を作成し安全を担保するしくみを構築してきたわけですが,ここでは,基準や法規の遵守や確認・認証は善意のもとに適切に実行されるものと想定しており,悪意で計算書を偽装するということを厳しく抑止するシステムにはなっていなかったわけです。建築物に限らず,安全の担保では通常,善意を前提としてシステムを作成しており,今回のような悪意の偽装をも考慮した,安全・安心を確保するシステムについては十分に検討されておらず,今後の課題となると思います。

今回は,建築確認を民間の確認検査機関がおこなっていたことも話題となりました。小さな政府の実現には,このような民間への業務委譲が必要ですが,偽装の代償が建築士や民間検査機関で償える範囲をはるかに上回っている以上,何らかの安全担保の制度が必要ではないでしょうか。

今回の耐震強度偽装建築物のいくつかには,行政から使用禁止命令が出ました。居住者の安全確保のための命令と思っている方もいるかもしれませんが,これはあくまで違法建築物に対する命令です。1981年の建築基準法改正以前の建築物には,今回使用禁止命令が出た建築物と同程度かそれ以下の耐震強度のものが多数存在していると考えられます。居住者の安全確保が目的なら,これらの建築物にも使用禁止命令を出すべきですが,これらは違法建築物ではないため(現在の法規には合わないので既存不適格と呼ばれる)行政がそのような命令を出さないわけです。地震時の安全を考える上では,こちらの問題も忘れてはならないものです。

第99号

田中 亨
ここしばらく,石油・化学産業では,全国紙の紙面に載るような大きな事故も無く,平穏な状態が続いております。皆様の努力の成果と言えましょう。
隣国中国では,11月13日,吉林省の石化プラントが爆発事故を起し,5名死亡,1名行方不明,約60名が負傷,さらに有毒物質(ベンゼン,ニトロベンゼンと報道されています。) 約百トンが松花江に流れ込み,前後80kmにおよぶ汚染水が下流のアムール川を経て,日本海,オホーツク海に向かっていると報道されています。この事故は,1986年に起こったスイス・バーゼルでの化学品倉庫火災事故を思い起こさせます。消火のための放水で,ライン川に流入した毒物は,バーゼル下流の独仏国境,独国内,オランダの各流域を汚染し,ロッテルダムから北海に流れ込み大きな国際問題を引き起こしました。今回,毒物が流入した松花江の下流はアムール川です。アムール川はロシア国内を流れ,河口は間宮海峡です。すでに,中国とロシア間では対応に関する協議がなされているとの報道がありますが,日本海,オホーツク海に出た場合,北海道他への影響が懸念されます。

国内には,国境を越える川はありませんが,大規模漏洩・流出事故が発生した場合,沿岸海浜汚染が引き起こされます。すでに,漏洩・流出事故対策はなされているでしょうが,この種の報道を対応策の確認・点検の切っ掛けとするのも実務でしょう。

なお,昨日12月11日には英国・ロンドンの北西約40kmに位置するヘメルへムステッドの石油貯蔵施設で爆発事故があり,燃料タンク20基が炎上(43名負傷,内2名重症)中とのことです。いずれも事故状況の報道のみで,原因などに関する記事は,まだ,見当たりません。今後の原因究明結果が公表され,プラント災害防止に役立てられることが期待されます。 今年も,残り3週間。ご安全に!

第98号 ものには限度が...

西 晴樹 < (独) 消防研究所>
以前,危険物保安に非常に尽力されている神戸市の化学会社の会長の方と話をする機会があったのですが,その中で「最近は,日本に名立たる企業で頻繁に火災事故が起きていますが,その理由はどのようにお考えでしょうか」という質問を率直にぶつけてみました。
回答はごく簡単なもので「本当に痛い目に遭ってないんでしょうな。」ということでした。阪神・淡路大震災で大打撃を受けた神戸市長田区にご自身の会社もあり,当時は大変苦労されたとのことですので,「痛い目に遭ってない」というお答えを聞いて非常に考えさせられました。

最近,失敗学や失敗知識データベースというものを耳にします。人は他人の成功談を聞くよりも失敗談を聞く方が興味がわくもので,他人がした失敗と同じ失敗をしないような行動を取るようになることが期待されているのだと思います。しかし,体験者の痛みが分からずに字面だけの解釈で終わってしまえば,失敗の知識が本当に身に付くことはなく,結局は本人が痛い目に遭うことになってしまうのではないでしょうか。

「失敗」や「痛み」を実際に体験させる施設もあると聞きますが,これとて,体験する側の心もち一つで,その効果は千差万別でしょうし,体験できる「失敗」や「痛み」には限界があるでしょう。ほどほどに失敗するというのは難しいものです。

あまり自慢できることではないのですが,私が仕事で使っているヘルメットは傷だらけです。現場では狭いところに,よく入るのですが,その時にヘルメットをよく擦ります。ヘルメットをかぶらずに頭をぶつけたことのある人には,ヘルメットの有り難みはよく分かると思います。頭をぶつけたことが無い人が,その痛みを感じ取るためには,たくましい想像力と鋭い感性が必要です。

そういう意味では,抽象化された失敗の知識を読むだけではなく,失敗した者から”なま”の失敗談を聞く方が,聞き手の感性に与える刺激は大きそうです。失敗談伝承のための語り部のような存在があってもいいのではないでしょうか。話を聞くだけで,本当に「痛い目」にあったような気分にさせてくれれば,言うこと無しなのですが。

第97号 制度体制か,はたまた価値観か

高野研一 < (財) 電力中央研究所>
1999年以降,企業の不祥事や事故が相次いでいる。事故の形態や起こった業界によって原因や経緯は様々であるが,スケジュール優先,過去に学んでいない,潜在リスク軽視等の共通点も見られる。
このような企業の中には,不幸にして業務を再開できない企業,企業規模の縮小を迫られたところもある。存続した企業は例外なく,未然防止のための体制や規程などを整えつつある。

しかしながら,体制や規則などの仕組みが思惑通り機能するかというとそうでもない。 
例えば,リコール隠しを犯した企業は当初,専門家でも非の打ち所のない倫理コンプライアンス体制を構築したといわれているが,その後,繰り返しこの問題が発覚し,最終決着らしきものを見たのはごく最近である。 
したがって,日本人は体制や仕組みに多くを期待しがちであるが(ISO認証企業は我が国が最多であることなど),このような仕組みの実効性を確保するには,人・組織など人間側への配慮が不可欠である。

すなわち,どんな小さなリスク,たとえ,それが自分にとって都合が悪い情報であってもそれらを共有できる文化を根底にもち,そのリスク情報への対応を客観視して公平に決断できるような,組織としての価値観共有がなければ,どんなに立派な仕組みも機能しないことを教えてくれた。事例は常に最高の教師である。

第96号 リスクとは?

大谷英雄 <横浜国立大学>
JIS Q 2001によれば,リスクとは「事態の確からしさとその結果の組合せ,又は事態の発生確率とその結果の組合せ」となっている。
安全工学の分野では,この定義の後半部分を使うことが多いと考えられるが,生態系,金融,経営といった事態の発生確率を推定することが困難な分野では前半部の定義が使われるようである。確からしさというのを無理やりに数字で表してしまえば発生確率と同じになってしまうのであろうが,数字で表さないことを良しとする考え方もあるようで,あくまでも確からしさという表現となっている。発生確率を推定する根拠あるいは手がかりすらないということであろうか。

しかし,もともとのリスクの語源は「絶壁の間を敢えて船で通り抜ける」というものであり,ジーニアス英和辞典には「みずから覚悟して冒す危険」という訳が載っている。すなわち,リスクとは自分が主体的に立ち向かうことのできるものというニュアンスがある。それに対して我々,安全工学に携わる者が普段扱っているリスクはどうであろうか。確かに産業分野におけるリスクを事業者が評価する場合には,みずから覚悟してリスクを冒していると言ってよいと思うが,それを周辺住民や,あるいは行政から見たらどうだろうか。行政にとっては,税収などのメリットもあるのだからみずから覚悟してリスクを冒しているのかもしれない。しかしながら,周辺住民にとっては,みずから覚悟してる人がどれだけいるだろうか。

昨今はRCやCSRといた,周辺住民などとのコミュニケーションを重視しなければならない経営環境となってきている。事業者が周辺住民といわゆるリスクコミュニケーションを行う場合には,周辺住民に「みずから覚悟して」と思わせる,何らかのインセンティブが必要なのではないだろうか。

第95号 真夏のできごと

上野信吾 <(株)三菱総合研究所>
関西電力・美浜発電所3号機で二次系配管破損による蒸気漏れ事故が起こったのは,1年前のお盆休みの直前であった。
この事故により,関西電力の協力会社従業員5名の尊い命が失われるとともに,関西電力への信頼,原子力への信頼も大きく揺らぐこととなった。事故から1年を迎えて,関西電力は安全に対する社長の宣言と5つの行動基本方針を掲げ,安全の誓いをホームページに掲載した。この中で事故の直接的な原因の背景に,「安全を最優先するという意識が私たちの中に十分浸透していなかったこと」をあげ,反省を表明している。

最近,JR西日本福知山線の脱線転覆事故,相次ぐ日本航空のトラブル(奇しくもJAL123便事故の20年目の翌日にJAL子会社のエンジン部品落下事故が発生)など,いわゆる名門大企業で国民の不安を煽る安全上の事案が多発している。事故やトラブルの直接的な原因は機械の故障であったり,人的ミスであったり様々であるが,こうしたハザードが顕在化しないように整えられている筈の仕組みやシステムが「機能しなかった」結果,事故やトラブルとして露呈してしまったケースが多い。「機能しなかった」要因には企業組織の問題(例えば,無理な作業要求や作業手順,職場内コミュニケーション,教育・訓練など)が指摘され,その背景には企業組織の安全意識・風土,安全文化の問題があったとされる,安全の専門家の間で「組織事象」と呼ばれる事案であることも少なくない。

安全文化はチェルノブイリ原子力発電所の事故後に国際原子力機関(IAEA)が提示した概念であり,その詳細については他の記事や文書に譲るが,企業経営に密接に係わる組織風土や文化(安全に対するものも含む)の問題は従来直接的にも間接的にも規制を受けるべきものではないと考えられてきた。しかしながら,先にあげた事例の他にも目に余る事故や不正,事件に対して社会が不安を覚えることを見過ごすことはできず,様々な産業分野で国は安全に係わる規制を強化する動きに出ている。

少子高齢化,産業・経済のグローバル化,情報化など社会環境が大きく変わりつつある中,企業も変革を余儀なくされている。変革することは容易ではないが,これまで信じてきた価値の延長を追及するばかりでなく,新たな価値を標榜し,従業員の意識を揃え,組織やシステムを見直すとともに,それらが企業の中身である人や組織に歪が生じることのないようにする,慎重かつ大胆な対応が安全を担保する上で必要なのだと思う。真夏に,蝉が土中の世界の幼虫から空中の成虫へ脱皮するように。

第94号 スペースシャトルの打ち上げ成功

板垣晴彦 <(独)産業安全研究所>
約2年半ぶりにスペースシャトルが打ち上げられた。予定通りであり順調に進んでいるとのこと,再開までの困難を乗り越えた関係者の成功をまずは祝したい。
前回のコロンビアの爆発事故では,当然さまざまな批判や意見が述べられたが,今回も先日の打ち上げ直前の延期問題が生じ,マスコミ記事は絶え間なかった。

7月13日の延期の原因は,4つある外部燃料タンクの液体水素残量センサーのうちの1つが燃料が枯渇しているのに燃料があるという誤作動を起こしたからだ。打ち上げを延期し,常温での試験・調査を行い,ある程度の絞り込みはできたそうだが,結局,原因が特定されなかった。特定するには測定相手の極低温の液体水素を実際に充填してみる方法が有効だが,タンクの巨大さ,日程の問題から実験が非常に困難であり,実施されなかった。 
そして,従来の飛行許可条件を緩和して,試験をしながらのぶっつけ本番とも言える今回の打ち上げに至った。このNASAの姿勢には批判も多く,「安全対策が不十分」とする報告書もある。しかし,NASAは「何重もの安全策を講じてある。ロケットという先端技術ですべて100%安全などあり得ない。そのリスクが許容範囲かどうかが問題だ」と説明する。

シャトルの部品数は250万以上という。開発初期の技術であれば,「想定していなかった要因」による事故がしばしば起こる。「想定」がなけば,リスクを見つけることも評価することもほとんど不可能。だから,少なくともわかっているリスクについては,万全を期す。「同じ失敗は二度と繰り返さない」ということが必須なのだ。 
ところが,時を経て,さまざまな失敗・事故を体験すると状況は変わってくる。失敗・事故の発生するのかどうかだけでなく,それによる悪影響はどの程度か?影響する範囲はどこまでか?を考える。そして,その悪影響の程度と範囲をできる限り抑え込もうとする。未然に防ぐことが最大の安全策ではあるのだが,システムが巨大になればなるほど,確実な実行がますます困難になる。 
一方,巨額の開発費をつぎ込む国家プロジェクト級の技術開発では,できる限り計画に沿って結果を出していかねばならず,原因の究明にばかりに時間を割くわけにもいかない。

冒険・挑戦とは「危険・未知」に立ち向かうこと,「安全」とは相反するのではないか。コロンビアの時に問題になった耐熱タイルが今回もごく一部らしいがはがれたようだ。今,実機で命をかけて実証実験をしている挑戦者たちに拍手を贈りたい。

第93号 システムの安全設計

天野 <出光興産>
安全の職務に携わる者として,決していい話題ではありませんが,最近,新聞紙上で産業事故等が大きく取り上げられています。
過去,昭和48年から50年頃に化学プラントで事故が多発し,社会問題として騒がれ,安全に対する社会の関心を呼んだ時期がありました。それを契機に企業の安全の取り組みが一段と加速され,安全と名のつく講習会が繁盛していたのを思い出します。

昭和50年頃から見れば現代の方がハード面,ソフト面での安全性は格段に向上しています。安全性が向上し,現場で働く一人ひとりが一生懸命,安全を確保するため,力を入れて安全活動を行っている現状から,現在も50年頃と同じように事故が続くのは,不思議でなりません。今までの安全に対する取り組みに何か忘れたものがあるのではないかと思っています。

話しは変わりますが,「安全対策をいくらとっても事故のリスクは変わらない」(ジェラルド・ワイルド)という,あまりうれしくない奇妙な説があります。データ的には否定されていますが,ひょっとしたら,現場を取り巻く安全体制が整備され,その機能が強化され,現場での教育もシステマティックに行われ,いろいろなところで安全の配慮がなされた結果として,危険を意識して仕事を行うということに変化が現れて来た兆しではないでしょうか。

安全な環境に置かれると,あえて心の中に不安や危機意識を呼び込み,緊張状態を作り出すようなことはせず,危険に対する意識がどうしても薄れて来るのではないでしょうか。フェーズの理論にもあるように,人の意識レベルは0からⅣまでの間を揺らいでいます。このような前提から安全対策を考えた場合,重大事故に繋がる部分については,ハードによって事故が回避されるようなシステム設計が必要不可欠と考えます。今後,このような観点からシステムの安全設計についての議論が多くなされてくると思っています。

第92号 安全のゴールはあるのか?

岡田 <三井化学分析センター>
先日,会社主催の九十九里浜 約70kmを歩く(走ってもよい)という行事に参加しました。 
参加したのは,今回で3回目です。1回目は,新入社員の時,2回目は,2年前,です。 残念ながら,過去2回は,天候や体調不良で70km完歩できずに悔しい思いをしていました。 今度こそは70km踏破しようと朝4時から延々と歩き始めました。
歩く間には様々な葛藤と戦いました。もうやめよう。もう少し頑張ろう。今度頑張ればいいじゃないかなど。 
歩きながら,ふと安全について考えました。安全にゴールというものは存在するのか? 安全に関しては,これで良い(完璧)ということはないのではないか。 
ここまで実施したという中間地点は存在するもののゴールなんて無いのでは?安全に関しては作業自体をやめてしまうことがゴールなのか? 
かといって,何もしなければ進歩はないし,ベネフィットも得られない。 
安全活動をしなければ運を天に任せるだけではないのか? 一歩一歩確実に,今より安全に,が積み重なって見えないゴールに向かっていかなければベネフィットが得られないではないかと思います。

70kmのゴールは,今年も見ることができませんでした。ゴールはあるのでしょうか?

※ちなみに70kmのゴールは存在して5時間半で走りきった人もいます。