セーフティー・はーと

セーフティー・はーと

「これからの日本にとって、安全は」

山中 洋 <三井化学株式会社> 2013年7月8日掲載
最近の新聞記事を読んでいると、グローバル化の加速に伴って日本の産業が大きく変化しつつあるのを強く感じる。

これは即ち、日本の企業の果たすべき役割が今までとは変わってきていることを示しているのであろう。
歴史を振り返ってみると、人々にとっての世界は着々と拡がってきた。原始時代には「集落」、江戸時代には「藩」、明治維新後には「日本」が人々にとっての世界であったと思う。これと同様に、いま人々にとっての世界が「日本」から「地球」に変わってきている。このような変化の時代の中で、日本企業の役割が大きく変わるのはごく自然なことだろう。世界が拡がる度に役割分担は最適化され、たとえば「大規模プラントは都心よりも地方に建設する」という今までの常識が「大規模プラントは日本よりも新興国に建設する」という風に変わりつつある。
では今後、世界における日本企業の役割とはどのようなものになるだろうか?個人的には、日本は今「お金持ちのシニア国」というポジションにあると考えている。資金力は潤沢だが、少子高齢化により労働力は減少している。このポジションから考えると、今後日本の企業が世界で活躍する分野(≒世界から期待されている分野)は「資金力」や「経験」を生かした分野になると思う。
経験が生きる分野の一つとして真っ先に思い浮かぶのが「安全」だろう。安全を維持するには、過去に痛い目に遭い、これを克服してきた経験が生きる。安全には過去の経験の積み重ねに基づく慎重な判断が不可欠であり、これは新興国が一朝一夕にキャッチアップできるものではないと思う。この強みを生かすためには、長年にわたり蓄積してきた経験を確実に伝承し、一つ一つ着実にサイエンスにしていくことが重要なのではないだろうか。安全の分野には、科学者にとって幸いなことに暗黙知が今なお多く存在し、サイエンス化する余地がまだ十分に残っていると感じている。日本の安全工学は、今まさに発展期に突入するところだと思う。

『リスク』という語について

熊崎美枝子 <横浜国立大学 大学院環境情報研究院> 2012年7月9日掲載
国内の政治・経済・経済情勢も先行き不透明で、日々報道される世界情勢も混沌とし将来が読めない昨今では、

不確実性の高い状況を説明する上で『リスク』という語は、大変便利な言葉だと思います。『リスク』とカタカナで書かれていることから、比較的新しい言葉であることが推察されます。オンライン記事データベース(聞蔵Ⅱビジュアル)で調べましたところ朝日新聞の記事中に『リスク』という語が用いられたのが1984年には37件だったのが、徐々に使用頻度が増え、1998年には1166件、2011年には震災の影響もあってか2193件に達しており、近年ではすっかり身近な語として浸透したようです。それだけ新聞記事がリスクという語を用いて、時代の不確実な面を切り取っていると言えるでしょう。

   しかし果たして我々は『リスク』という語が表す意味を理解し、共有しているのでしょうか。事実、データベース中には「リスク(危険)」 「危険度(リスク)」と書かれているような記事もあり、『リスク』という語が本来もつ「顕在化する可能性」の要素が抜け落ちていたり、事象や物質・システムがもつ固有の『ハザード』と混同しているケースも見受けられます。このような混同は、安全性を考える議論において問題となってきます。ハザードについて対策しているのか、リスクについて対策しているのか、自ずと対策の内容も異なるはずであり、管理の仕方も変わるので議論している場では参加者が認識を共有する必要があるでしょう。

   ヨーロッパ言語のなかにはリスクとハザードの区別がない言語もあるとのことですが日本語話者である我々も改めて『リスク』と『ハザード』について、認識を見直してみる必要があるのではないでしょうか。

 

東日本大震災から1年を経て

古積 博 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2012年3月29日掲載
東日本大震災から1年が経過した。被害に遭われた方々には改めてお見舞い申し上げます。
この間、辛い経験をされた方もおられることと思います。私自身も震災地に親戚を持ち、また、色々な経験をしたが、ここでは、別な観点から述べてみたい。私、昨年3月で定年退職した後、外国に行く機会を得、様々な外国人、外国のマスコミ報道に触れる機会があり外国人が日本をどう見ているか知ることができた。
 外国のテレビ、新聞が日本について報道することはほとんどないが、さすがに、東北地震だけはよく報道されていた。単に感傷的な報道や地震の怖さだけではなく、原子力の怖さ、世界の政治、経済への影響等細かいことまでよく報道されていた。日本の産業の空洞化と日本の産業の移転によって受入国の雇用促進の話もニュースになっていた。改めて、世界地図で見れば、日本は、ごく小さな島国で、原発事故で日本全体が被害を受けたと思われても仕方ないようである。
 日本の民度の高さ、最小限の混乱しか起きなかったことはよく知られており、この面では確かに相変わらず日本は評価されている。「ふくしま50」という言葉はよく知られており、日本の現場力、特に社会全体において自己犠牲の精神、責任力の高さが評価されている。改めて、日本が好きになったとか、日本人が尊敬できるといったことをよく言われた。ただ、日本の現場力の高さは、反面、日本の組織のトップがいかに責任を果たしていないかの裏返しと思う。日本の国政の混乱や原子力行政・技術・研究のまずさはまさにその一端だろうが、企業や官庁でも同様かもしれない。さらに学会組織はどうであろう。確かに、多くの底辺の職員、研究者、技術者は優秀であるが、どうもそれを束ねる力とか戦略が不足している気がする。先日も、被災地を訪問し、遅々として進まない復興の様子や瓦礫の山を見ると情けなくなる。どうも日本人は、このような力が足りないのかもしれない。行政組織、企業、学会その他の組織のトップ、幹部の方には、ぜひ、がんばって貰いたいと思う。

第138号 失言

鈴木 和彦 <岡山大学 大学院 自然科学研究科> 2012年1月17日掲載
昨年(2011年)に開催されたある会合での「私の失言」の話である.
安全教育についての会合後の懇親会で,乾杯の音頭と挨拶を 依頼された.そこで私は「安全は大切だが企業が利潤を追求することが重要である.利潤を得てこそ安全に投資することが可能となる.しっか りと安全教育を実施してほしい.」旨の発言をした.「失言」であった.その場がしらけ,懇親会の最中に参加者から「企業にとって安全が第一である.なぜあのような発言をしたのか?」と叱責・非難された.その頃の私の問題意識の中に「企業の国際的競争力の低下」があった.国際競争力を失い,企業の体力が低下すると,安全への投資は減るばかりである.競争力強化を願うことからの発言であった.しかし,「失言」であることには間違いない.「安全第一」の重要性を今一度しっかりと肝に銘じようと反省の日々である.

その会合での「失言」が今でも気になっている.いくつかの企業の方に質問すると,ほとんどは「利潤追求」より「安全」であると言われる.しかし,現実はどうであろう?現場の人員は極限近くまで削減され,課長さんは書類作成・整理に追われてほとんど現場に出ていない.現場の悲鳴が聞こえ,現場の細部に安全管理の目が行き届いていない.平常時の業務はこなせても,非定常な状態に適切に対応できていない.そのことから事故が起こっている.

企業では [安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間での活動を強いられる.そのような状況の中,安全成績が優秀な企業・事業所が確実に存在する.経営層・上級管理職の強いリーダシップ,現場での使命感・納得感が感じられる.さらに,そこには適切な資源配分が施されている.

昨年の「失言」の後遺症かもしれないが,[安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間で悩みそうである.その解が「安全文化」かもしれない.

しかし,最近の学生達,若い大学教員・研究者に競争意識がない.その結果,競争力がない.このことも気になる.

第137号 ISO 26262「自動車の機能安全」は日本の得意技となり得るか

佐藤 吉信 <東京海洋大学 海洋工学部> 2011年11月22日掲載
さる11月15日にISO 26262「自動車‐機能安全」、
すなわち自動車(重量3.5トン未満の乗用車)における電子制御システムの機能安全規格が正式にISOより発効された。
現在の状況は、自動車レースに例えれば、セーフティカ―(先導車)あるいはポールポジション車両が先導してコース周回走行中であり、これが3~4年間継続した後、いよいよローリングスタート(Rolling Start)となる状況に似ている。すなわち、3~4年後には我が国においても自動車の機能安全規格(ISO 26262)適合車種の市場への流通が開始される見込みである。

自動車電子制御の安全指針策定すなわち自動車の機能安全規格策定の経緯を振り返ると、国内では、2001年から2002年にかけて、国土交通省がスポンサーとなり、機能安全基本規格IEC 61508「電子・電気・プログラマブル電子安全関連系の機能安全」を自動車の電子制御の安全基準策定に応用する検討会(事務局:自動車研究所、座長:佐藤吉信?東京海洋大学)が実施された。検討会の調査報告書は、その後の我が国の例えばABS(Anti-lock Braking System)の認定試験などにおいて少なからず活用された。しかし、この種の検討会の国の予算措置は通常2年程度が限度である。国際規格への提案となれば、最低でも5年は予算措置を継続する必要がある。結局、我が国からは自動車の機能安全規格策定の提案を行うことはできなかったという苦い思い出がある。

その頃、EUでは、ドイツとフランスが中心となり、同様に自動車電子制御の機能安全規格の策定が開始されたといわれている。そして、2005年6月、ISO/TC 22/SC 3においてドイツのDINを事務局とするISO 26262原案策定ワーキンググループ(WG)が発足したことになる。その結果、舞台をISOに移して、ヨーロッパ、日本、米国などの自動車メーカーと部品メーカーからのエキスパートを中心としたWGの精力的な6年6ヶ月の作業、非公式の地域的な検討開始から数えれば実に10年の歳月をかけてISO 26262が発行されたことになる。

もっとも、ISO 26262は基本規格IEC 61508を親規格とした自動車用製品規格であり、その誕生まではIEC 61508の策定作業の開始から実に20年近い歳月が流れたことになり、感無量の思いもある。筆者は、直接的にはISO 26262の策定作業には関わらなかったが、完成したISO 26262を読むと、IEC 61508における安全マネジメント及び技術上の基本的な要求事項、例えば、SIL/リスク軽減、決定論的能力、安全側故障割合(SFF)をそれぞれASIL/リスク軽減、ASIL具現化のための分解(decomposition)、フォールト・メットリクスなどとして、自動車電子制御の機能安全のための特有な仕立て直しと具体化(tailoring)を行っている。さすがに、自動車産業は人材豊富であり、いずれも的確な仕立て直しと具体化である。

ものづくりが生命線である日本にとって、ISO 26262「自動車の機能安全」規格の実践を日本の得意技とし、安全においても世界をリードしていくことが筆者の願いでもある。

第136号 ヒューマンエラーとペナルティ

和田 有司 <独立行政法人産業技術総合研究所・安全科学研究部門> 2011年10月6日掲載
NPO安全工学会では,保安力評価システムの構築を進めている。
保安力評価は,生産技術における安全確保の仕組み(保安基盤)とそれを活性化させる人間系(安全文化)の項目をそれぞれ評価することによって実施することが検討されている。これらの評価項目の詳細については,安全工学誌や安全工学シンポジウムでの講演で紹介されているので,ここでは省略する。

先日,この安全文化の評価項目について検討するワーキンググループで,「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」は安全文化として重要であるかどうか,という議論があった。

ヒューマンエラーに対して,ペナルティを科すことなくその原因を追及し,必要な対応をとる,というのは理想的ではあるが,実際にはなかなかそうはいかないらしい。例えば,故意にルールを逸脱した場合やうっかりミスの場合は,しっかり罰しないとダメだ,ということのようである。

残念ながら筆者は実際の現場のことはよくわからないが,それでもヒューマンエラーにはペナルティを科すべきではない,と思う。故意にルールを逸脱する行為にしても,その背景には何か原因があるはずである。手順の省略であれば,どこかに時間に対するプレッシャーがあるのかもしれないし,そもそもルールが守られにくい内容なのかもしれない,そうでなければ,なぜそのルールを守らなければならないという"Know Why"の教育が足りないのかもしれないのである。うっかりミスも,その背景には過重労働や作業のチェック体制に問題があるかもしれない。

ヒューマンエラーに対して,そういった分析をしっかりやって,可能な限り対策をとること(資金や時間の問題で手が回らないところは,理由を示して十分に注意喚起する)が大切で,ペナルティを科すことによって効果を得ようとしても,のど元過ぎれば・・・になる可能性が高いと思う。

安全文化の評価に話を戻す。「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」と言われたときに,そんなことは無理だ,という企業(や事業所)に対しては,ヒューマンエラーをどこまで分析しているか,が評価の分かれ目になるであろう。ろくに分析もしないで作業者に責任を押しつけているようではダメなのである。

第135号 安全第一 とは

若倉 正英 <独立行政法人 産業技術総合研究所> 2011年8月26日掲載
安全工学会では、小野会長のご尽力で石油化学産業の社長経験者また現職の社長さん方との意見交換を何度も行い、安全に関する社長の役割についてとりまとめている。
意見交換会に同席させていただいたおり、トップの方々に共通する思いが2点あるように感じられた。1点目はお題目としての「安全第1」はあまり意味がないといわれる方が多いことであった。安全が必須なのは当然であって、その上に企業の存続と発展があるのだが、それを社員にどのように理解してもらうのかに苦慮されているという。ある社長さんが、「若い社員達はボランティアに関心が高く、東北大震災への対応も生かして、企業の社会貢献の重要性を基盤に安全の意義を浸透させたい」といわれていたのが心に残っている。若者のボランティアへの関心については、社員教育を主な業務とする会社の方からも同じことを聞いている。

第2は自社の安全のレベルや安全風土の弱点についてであった。安全部門を含めて一生懸命取り組んでいることは理解しているが、会社の運営に全責任を負っている社長さんとしては、業界内での安全上の位置づけを知りたいというのは、切なる思いのように感じたのであった。

なお、社長の役割についての意見交換の経緯や提言は、安全工学誌Vol.50 №3・№.4で報告されている。

第134号 東日本大震災における「避難」の実態についての雑感

藤田 哲男 <東燃ゼネラル石油株式会社> 2011年7月11日掲載
早いもので、東日本大震災の発生から、二ヵ月半も経ちましたが、依然として、福島第一原発は収束の見込みがはっきりせず、何とかその方向が一刻も早く見えるようになることを切に願っている毎日です。
一方、大震災の事故解析は進みつつありますが、最近、都心からの帰宅困難者の問題が取り上げられていましたので、今回は「避難」の課題について考え直してみることにしました。

当日の「避難」の実態を追ってみると、その準備のあり方およびその実際の実施方法によって、大きな差異があったようです。たとえ、準備をしていても、想定外の津波の大きさには到底対応できなかったケースもありますが、きちんと綿密に対策を取っていれば、助かったケースは多かったと考えられます。車で避難しようとして、却って渋滞で命を落としたケースも多々あったようですが、車の機能を過信してはいけないと言うことのようです。「まさか」とか、「まだ、大丈夫」とかの思い込みで被害にあった例も多かったようです。改めて、大震災に向けた「避難」要領を見直して、その実施訓練を早期に計画する必要があるように感じました。

また、都心からの帰宅困難者の問題については、皆一斉に帰宅に向かえば、却って危険な状態に陥る可能性が高いことが実証されたようです。帰宅の動機は、家族の安否確認が取れない、家族に早く会いたいと言うことが多かったように思われますが、安否確認方法や携帯電話等の連絡手段の向上を図り、都心での避難対策をもっと充実させれば、ある程度は解決されるように感じました。

つい先日も、死亡事故に至らず幸いでしたが、JR北海道石勝線トンネル内での特急列車火災事故では、まさしく「避難」のあり方がことの大事を左右しました。問題は、避難誘導がJRによってなされなかったことです。想定、想定外の是非はともかく、ここは真摯に不備を認め、再発防止に努力する姿勢が求められていると感じました。

第133号 放射線化学と原発事故

中村 順 <財団法人 総合安全工学研究所> 2011年5月30日掲載
私は、大学院を放射線化学教室でお世話になりました。放射線化学とは電離放射線を物質に照射したときの化学反応を研究する学問で物理化学の範疇です。
水に放射線を照射すると水分子のイオン化、励起により、水素原子、ヒドロキシルラジカル、水和電子が生成します。引き続き反応により水素ガスや過酸化水素などが生成します。酸素ガスは発生しません。放射線環境下に水があれば水素が発生することは昔からよく知られている事実です。溶液の場合には、それらの活性化学種と溶質との酸化還元反応などによりさらに他の生成物が生じます。細胞に放射線照射したときには、水分子から生じるラジカルと生体構成分子との間接反応や、生体構成分子の直接のイオン化などによりDNAなどの鎖の切断、架橋などの反応を起こして、生体内でうまく修復できないと傷害が現れたり、突然変異が起きて発がんをしたり、遺伝的影響を及ぼすことになります。

一方、私は大学院修了後、科学警察研究所で爆発事故の原因究明の仕事を長年し、数多くの爆発事故現場を見てきました。今回の原子炉建屋の爆発事故については、水素爆発と不正確な言い方がなされていますが、水素だけでは爆発しないので空気(酸素)と混合し、それに何らかの着火源により着火爆発したものと考えられます。水素ガスの可燃性を示す濃度範囲、着火エネルギー、圧力の影響など多くのデータが公表されており、いかに爆発事故を防ぐか安全工学の基本的な事項でもあります。一方で原子炉事故に関しては、水蒸気爆発の可能性も指摘されています。昔、水蒸気爆発のメカニズムがよくわからない時代に、高温の物体に接触した水が酸素と水素に分解して,それが再度反応してガス爆発を起こすと言われたことがあります。しかしながら現代ではそれでは現象を説明できず,水の急激な気化による物理的爆発として知られています。水と高温の物体との接触の状況の違いにより、突沸や噴出程度から凝縮相爆発に近いような強力な爆発まであり、その原因解明は比較的難しいものです。

事故原因の解明に科学者や技術者としては、起こっている事実をいろいろな角度から検討することが必要です。専門家とか解説者などという方々が発言されていますが、正確でない部分もみられます。運転状況の調査や、詳細に現場観察することができない状況では、推測しかありえないでしょうが、その言葉の責任はどうとられるのでしょう。

さらにインターネットや今回の事故に関連して急遽出版された本屋に並んでいる本にはなかなか必要な情報に行き当たりません。原因究明も難しいのに、一方的原因を書いて過失の追及を熱心に行っているサイトも見られます。

中国の漢の時代のことを書いた漢書という本にみえる語で「実事求是」という言葉があります。実証を重んじ,証拠のないことを信じない態度をいいます。このときだからこそ、自らの考えで判断されることが必要だと思います。

第132号 第三者というもの

土屋 正春 <株式会社 三菱総合研究所 科学・安全政策研究本部> 2011年4月25日掲載
「第三者認証機関」という言い方は、国際標準的には正確ではない。
なぜなら、「認証」というものは、第三者によって行われるものと定義されているから、という理由である。ものを作ったり売ったりする人が第一者、それを買う人が第二者。第二者としては、その取引にあたって、第一者がごまかしていたりすると困る。そこで正当性を確認するための存在として、どちらからも独立した第三者が登場することになる。

企業の品質マネジメントシステムや環境マネジメントシステムの認証を行っている組織は、この第三者。この面では、品質や安全が確保されていることを証明する合理的な方法として、日本でも認識されてきたといえる。しかし、一般には、第三者の考え方が定着しているとは思えない。市場に流通する商品を良く見ると、安全や品質を確認しましたという意味の多種多様のマークが表示されている。それらには、第三者が付けているマークもあるが、実は第一者が付けているマークも数多い。製造した企業や業界団体が、自らの製品の安全性や品質の確認を宣言することは悪いことではない。しかし、それがなんとなく客観的な証明として受け取られてしまうとしたら問題だろう。製品に表示されているマークを見かけたら、第三者という立場からも考えてみていただければと思う。

第131号 地震津波災害の大きさに圧倒されての雑感

西 晴樹 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2011年3月22日掲載
2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。
最大震度7を記録した東北地方太平洋沖地震と名付けられたこの地震は、その大きさもさることながら、引き起こした被害の大きさは、まさに未曾有のものです。

地震が発生すると、筆者の携帯電話に連絡があるのですが、3月11日午後は携帯電話が鳴り止みませんでした。

直後に、報道各局のカメラが捉えた大津波の映像がテレビに映し出され、炎が津波に合わせて移動していく様に恐怖を感じました。

この原稿を執筆している段階で、死者3473人、行方不明者7355人、負傷者2333人となっており、人的被害の大きさも想像を絶するものでした。ただ、亡くなられた方のご冥福をお祈りするばかりです。

原子力発電所の爆発火災、津波による建物や石油タンクの倒壊、コンビナート火災、石油タンク火災、危険物の漏洩、石油タンクの浮き屋根の沈没などの事故が発生し、一つだけ見ても大変な事故なのに、それが同時多発で発生することはあるかもしれないが、可能性はほとんどゼロだろうと漠然と思っていました。

街、石油コンビナート、原子力発電所を高さ10mの防潮堤に囲まなければ今回の津波被害を完全に防ぐことは難しかったでしょう。「高さ10mの防潮堤」を想像する度に、今回の巨大地震が発生するよりも「ありえない」と感じていたのも否定できません。

しかしながら、実際に巨大地震は発生しました。改めて日頃の想像力が如何に足りなかったかを思い知らされました。地震の発生を止めることは恐らくできないでしょうから、この日本で暮らしていくためには地震とうまく付き合っていくことが重要なのでしょう。地震学者によれば、今回のような地震は1000年に1回だとのことですが、1000年前の平安時代の人も生き残って今日の日本があるのですから、現代の私たちも今回の地震被害にくじけたりせずに、なんとか生き抜いて、より安全な社会を作っていくことが肝要と思います。

第130号 親切な案内と産業保安

高木 伸夫 <システム安全研究所> 2011年2月18日掲載
初めて日本に来た外国人が、日本には標識が多いのに驚くということを聞いたことがある。
交通標識はしっかりしているし、街中においても、また、名所・旧跡においても多数の道案内や標識が見受けられる。目的の場所に行くのにも自分で考える必要もそれほどない。これは列車においてもいえることで、行先や停車駅の案内、マナーやお願いに関する車内放送がおせっかいなほど多い。とにかく親切な表示や案内が多く、どこに行くにも、何かを探すにも便利でありイージーである。これらは日本人の几帳面さや親切心によるものといえようが、だがちょっと待てよ、知らず知らずのうちにみんなが同じ方向を向いてしまっているのではないだろうか。案内の通りに行動すればそれほど考える必要もなく確かに無難であるが、こんな道もあったのか、こんなところに神社があったのか、といったような思いもかけない発見の楽しみを奪っていないだろうか。自分でいろいろと考えて行動すると、大きな回り道をしてしまうかもしれないというリスクもあるが貴重な体験が得られるともいえよう。

この標識などの案内と同様のことが日本の産業保安における安全管理にも言えることではないだろうか。産業保安においては仕様規定型の法令を順守するという構造が長く続いてきた。仕様規定型の長所は、そのとおりやれば誰でもが一定の成果が得られるという長所はあるが、それは逆にそれさえやっていればよいという安易な方向に走り、思考の停滞を招き、新しい技術や方策、管理体系を模索する努力を失わせてしまうことになりかねない。法令順守は当然であるが、社会の多様化、技術の多様化が進んでいる時代においては、法の枠組みを超えて、それぞれが今より一歩先の安全目標を設定し、自分で考えて安全確保の方策を策定し実行していくことが必要といるのではないだろうか。

第129号 安全・不安な社会

大久保 元 <株式会社 エックス都市研究所> 2011年1月20日掲載
最近は「安全・安心な社会の確立」とか「安全・安心な社会の構築」とか「安全・安心」というキーフレーズがよく使われているように思いますが、私はやや違和感を覚えます。
「安全」の部分には全く反対しませんが、「安心」の部分にはおいそれとは賛同しかねます。

安全な状態を担保するためには、社会に棲む人々が日々懐疑的精神を失わず、あらゆる事象を疑い、自らの頭で考えた上で、適切な判断を下すという姿勢が不可欠であると思います。したがって、「安全・安心な社会」と一気に縮めるのではなく、各人が感じる「不安」を端緒とし、懐疑的精神に基づき、十分な思考や行動を重ね、その結果として「安心」を享受するという社会、つまり、縮めるのであれば、敢えて誤解を恐れずに「安全・不安な社会」とでもした方が望ましいのではないかと考えています。

第128号 ノーベル 安全工学賞

岡田 理 <三井化学株式会社> 2010年12月6日掲載
2010年 ノーベル化学賞を鈴木先生、根岸先生が受賞され、日本に明るい話題が走った。両先生は、出身校などで講演をされ、研究に対する情熱などを語られている。
2000年以降、ノーベル化学賞、物理賞で同時受賞など日本人受賞者が増え、日本の科学が注目されている。ご存知の通り、ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベルが自分の遺産を人類のために貢献した人々に還元するようにと言う遺言から始まったとされている。ノーベル賞には、物理賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の6部門がある。ボーダレスの昨今、物理賞、化学賞、生理学・医学賞の領域の違いがわかりにくくなってきているような気がする。将来、自然科学賞などと一括りにされることがあるかもしれない。人類のために貢献しているのは、自然科学だけではなく、工学もまたしかりである。むしろ、工学の方が直接貢献しているのではないか。ただ直接貢献しているが故に、経済的メリットを受け商売につながり、ノーベル賞を与えなくても技術が注目されるということであろうか?

また、そもそもダイナマイトの発明者のノーベル氏にふさわしい安全賞もしくは安全工学賞というのがあっても良いのではないか?安全は、重要と言われつつも中々経済的メリットと結びつきにくく、発展するためには、いくつか壁を乗り越えなければならないような気がする。そのためにも将来ノーベル安全工学賞ができることを望む。

第127号 安全・安心

飯塚 義明 <有限会社 PHAコンサルティング> 2010年11月8日掲載
「安全・安心」はここ数年いろいろな場面で目にし、耳にもする。
食の安全・安心、社会不安に対する安全・安心願望が代表的である。最近、化学プラントの安全・安心と言うフレーズを見たときに前の二つの使用例に対して何か違和感をもち、ある種の不安感をもった。安全は、加害要因と被害要因との相対的な科学的事実であり、安心は個人又は集団の気持ちのあり方である。安心感をもつのは、被害者となる可能性をもつ側の心情であり、加害者となる可能性がある側がこの安心感を持つことは、油断という非常に危険な状況を潜在させることになる。安全=安心という勘違いの例として、化学プラントと離れるが、35年前、北海道の畑の中を通る国道のドライブしたときのヒヤリハットを思い出す。未舗装ながら直線で周辺に人影も無く、安心して漠然としたおしゃべりしながらハンドルを握っていた。そこに突然、エゾ鹿が数頭森から駆け出してきたので、想定外のこともあり、慌てて急ブレーキを砂利道で踏んでしまった。かなり横滑りしたが、幸い畑に落ちることも無く事なきを得た。まわりに見える事実だけで危険な状況にないと勝手な判断が一つ間違えば、同乗者も巻き込んだ重大事故に発展する可能性があった。あらゆる化学プラントは本質的に重大な保安事故につながる危険な要素が潜在している。地域住民や事業所関係者が安心して過せるように、それぞれのプラント担当者は、見かけの安全状態に油断することなく、堅実なプラントの運転を継続することを切に望むものである。

第126号 組織文化の効用!

高野 研一 <慶応義塾大学> 2010年8月18日掲載
事故を減らすためには、何が必要か、日々安全担当者は頭を抱えているかも知れない。
事故防止には職場に潜むリスクを直接減らす努力も必要であるが、ここで回り道かもしれないが、リスクを見出し対処するのは人間であることをもう一度考えてみたい。

我々が取り組んでいるのはいわゆる「安全文化」であり、リスクの減少に直接寄与するものではない。しかし、経営者から管理者、そして従業員まで、安全に関する価値を共有し、安全活動に魂を吹き込む効果が期待できる。

すなわち、安全活動や小集団活動を活発にし、コミュニケーション豊かなモチベーションに満ちた職場環境を創造していくことが目標である。これにより、あまり活発ではないリスク低減活動に自ら問題意識をもって取り組む効果を期待している。

また、命を守ることの意義と使命感を経営者にも共有してもらい会社全体でその理念達成を目標に自発的に進めていく環境を期待している。このような職場環境は事故防止だけではなく、生産性向上にも必須の要素である。

第125号 "安全の反対"を考えると見えて来るものは

松倉 邦夫 <安全工学会 事務局長> 2010年1月20日掲載
はじめるにあたり簡単に自己紹介をさせていただきます。
私は37年間、三共化成工業株式会社(現 第一三共ケミカルファーマ㈱)に勤務し、工業薬品、医薬品の原薬・治験薬などの技術、製造、環境安全部門に携わってきました。とりわけ苦労したのは、最後の職場となった環境安全部門でした。

技術部門では自分が或いは自分の目の届くメンバーに対して気を配って入れば済んだのですが、環境安全部門の守備範囲は、全工場の従業員さらには協力会社、出入りする業者の方々までが対象となりますので、それは気の休まることはありませんでした。またその中には、静電気に起因した出火事故や研究所の連続運転中の深夜のボヤなどと今改めて思い返しても溜息が出る日々でした。

会社生活で一番長かった技術部門は、約18年で会社人生のほぼ半分を過ごしました。業務は、研究部門で基礎合成を終えたフローを引継ぎ、コルベンスケール(500mL~10Lサイズ)、中量試製スケール(~500Lサイズ)そして、現場へと繋いで行き、現場製造が上手く行き落ち着くか、落ち着かないかにまた、次のテーマが始まる・・・、そんな生活を思えば18年間近くして来た訳です。

結局は、上手く製造が動いてホッとする間もなく、次のテーマが始まることから、頭の中は何時でも宿題だらけの、これまた思い返せば因果な仕事でした。でも、現場が予定通り動いた時には、一時ですが山行で言う山頂に立った爽快な思いでした。きっと世の技術・研究者は皆様同じ思いで日々を送っていることと思います。そして、それぞれのテーマには、何かしらの"峠"がありました。生産ベースに乗る収量(収率)に到達しない、製品の品質が規格をクリアーしない、現場で生産出来る操作性にならない、再現性が低いなど色々とありました。

幸いと言うか、私は電車通勤時間が片道1時間半以上ありましたので、電車の中は宿題を整理するのに格好の時間でした。"峠の先が見えない時"は、夢の中まで悶々とした日も何度もありました。

特に苦しいのは、生産日程が確定して、設備の新設や変更がどんどん進み、医薬品評価のphase(フェーズ)1,2,3とステップが上がるのに、"峠"がクリアー出来ない時は、最悪の精神状態です。反応条件を変える(但し、変更する範囲の制約があります。当初提出したサンプルと大幅な変更をすると、再度同等性の評価をすることになるので・・・)条件を模索する訳ですが、ある日、開き直りと言うか、苦しまみれにB型の私は、突拍子もない発想をしてみました。

それは、例えば"収量(収率)"が採算ベースに乗らなかった時、"もっと、収量が悪くなる方法はないか?"と言うことでした。何時でもメモ帳を持っていましたので、どうしたら、収量を悪化させられるかを色々と書き連ねてみました。そうしますと、悪くする方向のことは意外と思い浮かびます。

例えば、反応温度を高くする、撹拌を遅くする、触媒量を減らす、副原料のモル比を下げる、中間原料のグレードを下げる・・・・、そんな反対のことを書いたメモを眺めて、その反対のことをして行けばもしかしたら、収量向上の道筋が見えてくるのではと思い、次なる反応検討をする項目を探して行きました。

環境安全部門において、後半もっとも力を入れたのが安全教育でした。ある日、講習会で交通安全と絡めた安全の話をしました。私の講習は対話型で、先ず皆に「どうしたら車の交通事故を無くせるか?」と言う問いを出しました。皆は、制限速度を守り、信号を守る・・・、と出て来たところで答えが止まりました。

そこで、次に「どうしたら車で交通事故を起こせるか?」と問うと、皆、目を輝かせて答えがどんどんと出て来ました。制限速度違反をする、信号を守らない、携帯電話をしながら運転する、大きな音で音楽を聴きながら、車線変更をウインカーを出さないでする、急加速する、急ブレーキを踏む、片手ハンドルで運転する、ハンドルを持たないで運転する、高速道を逆走する、お酒・ビールを飲んでまたは飲みながら運転する、一時停止を止まらないで交差点に入る、一方通行を逆走する、踏切を一旦停止しない、自転車や歩行者の横をすれすれに通る、景色を見ながら運転する、カーナビを改造してTVを見ながら運転する、新聞を読みながら運転する・・・。 そして講習会の最後に私からの一言は「今皆が言ったことの"反対のこと"をするのが"交通事故を無くして行くこと"です。」

"安全確保することばかり教える"より、"こうすれば事故を起こせること"を考えて貰い・・・、そこで再度、その反対のことを考えると、案外"安全"が見えて来るかもしれません。ご安全に。

第124号 化学事故と安全操業への経営者の責任

若倉 正英 2009年11月5日掲載
21世紀に入っても化学物質による大事故が発生し、
市民や事業所周辺の環境に甚大な影響を及ぼす事例も少なくありません。
重大事故は機器故障や腐食劣化などの設備要因、人的過誤などが直接要因とされますが、その背後にある組織や人の意識の要因を掘り出すことが重要であるという認識が高まっています。特に、2005年に発生した英国石油の 米国Texas製油所、 英国 のBuncefieldの油槽所での事故はいずれも、経営者の利益優先に起因する運転員の質の低下が事故の要因となったと指摘されました。2008年にはイギリスでHSE(イギリス健康安全庁)主催の経営トップの在り方に関するセミナーが開かれました。また、OECD環境部門が策定した2009 - 2012年の化学安全に関する活動プログラムでは、化学事故防止に対する企業経営層の役割についての課題も含まれることになりました。これを受けて、第19回(2009年10月)の Working Group on Chemical Accidents (WGCA) で、本課題に関する分科会の設置が決定され、WG議長(ドイツ)から日本の参加が要請されています。

安全工学会でも産業の安全は経営者の姿勢によるところが大きいという認識から、トップマネージメントに関する安全教育セミナーを平成18・19年度に実施しました。現在この活動をさらに進めるための検討を行っています。会員各位のお知恵と協力を仰ぎながら、実効的な方向を模索していきたいと考えております。

第123号 残留リスクと危機管理

大谷 英雄 <横浜国立大学大学院環境情報研究院> 2008年9月19日掲載
まだ私自身の理解が混乱している面もあると思うが、以下は頭を整理する意味で書いてみたものである。
残留リスクとは、リスクアセスメントの結果として予想された好ましくないリスクを低減した後に残るリスクのことであり、リスクマネジメントにおいては、残留リスクが受容限度内であることが求められる。費用対効果を考慮して受忍限度内で低減対策を終了することもあるかも知れないが、これも含めて、ここでは受容限度と表現している。残留リスクが正確に見積もられていないならば、これが受容あるいは受忍限度内であるかどうかの判断はできない。したがって、残留リスクが正確に求められていることが必須である。

はたして残留リスクを正確に求めることは可能だろうか?リスクとは我々を取り巻く環境が複雑系であり、すべての要素の因果関係を正確に見積もることが困難であるので、我々がコントロールできる要素、および認知可能な要素に変動が生じるために生じるものである。つまり、リスクとは因果関係を正確に見積もることが困難であるために生じる概念であり、未知の要因・因果関係が残っている可能性を忘れてはならない。たとえば、化学プラントで言えば、いつ配管に穴が開くかが分かれば、その前に配管を取り換えればいいので、配管内の流体が漏えいするリスクは存在しない。しかしながら、配管を取り巻く状況により腐食の進行度合いは異なり、いつ穴が開くかという時期に変動が生じるためリスクが発生する。この他にも、隣接地域での工事等に使用する重機が接触する、大雪で高所に降り積もった雪の塊が落下する等により配管が折れ曲がり、破断して漏えいするという事故も実際に発生しており、このようなハザード要因も現実には存在している。これらを本当に正確に予想できるのだろうか?

リスクアセスメントは未来予測であり、我々が未来に起こり得ることをすべて予測できるのでない限りは、必ず予測できていないハザード要因があるはずであり、残留リスクを正確に見積もることは不可能である。それでは、リスクマネジメントは不可能なのであろうか?リスクアセスメントは、実施者の知識内でしか行えないものであるから、実施者一人一人ができるだけ多くの知識を蓄え、アセスメント実施の際に活用できるようにするとともに、いろいろな知識を持った複数の実施者で行うことが望ましい。こういう努力を払った上でも予測困難なハザード要因が残っていることを想定しておく必要がある。残留リスクは正確に見積もれないかもしれないが、合理的に説明できることについては、できるだけ広範囲に検討し、予測範囲内では正確に残留リスクを算出する。その残留リスクが受容限度内であれば、合理的なリスクマネジメントはできていると考えるべきであろう。

予測できていないハザード要因に対しては、それの発現確率を下げるような直接的な対策は困難である。安全文化の構築のような間接的な対策で、ある程度は下げることが可能かも知れない。つまり、このようなハザード要因は通常のリスクマネジメントの対象にはならないことから、これへの対処は危機管理の範疇となる。予測できていないのであるから、予め対応策を検討しておくことはできず、ハザードが現出してからそれへの対応を図る必要がある。なお、危機管理とリスクマネジメントを同じように使っている人もあるが、リスクマネジメントは予測が可能なことを前提としており、予測が可能な範囲では危機に陥らないようにマネジメントすべきである。

ここのところ食品の偽装に関して危機管理という言葉が使われるが、偽装が発覚した場合に企業の存続が脅かされるような事態になることは容易に予測が可能である。また、偽装の事実を永久に隠匿できないことも予測の範囲内のことである。したがって、このような事例はリスクマネジメントができていなかったと見るべきで、リスクマネジメントに多大な努力をしている企業の危機管理と同列に論じるべきではない。

第122号 事故情報をどう活かすか

板垣 晴彦 <(独)労働安全衛生総合研究所> 2008年2月18日掲載
ガス湯沸かし器やシュレッダーでの製品事故などが契機となって昨年5月に消費生活用製品安全法が改正された。
この改正とともに製品評価技術基盤機構のホームページ上にて製品事故の情報が公表されるようになった。新聞を中心にリコール広告がほぼ毎日掲載されるほどだから、事故情報となるとさらに多いだろうとは思いつつ最近のぞいてみたところ、なんと1万8000件近くの事故情報が待っていた。事故調査が進み解析をある程度終えたものから順次登録されているようなので、1996年ごろから2006年3月までの10年分だ。なお、最新の事故情報は速報の形で別に公表されている。

さて、これだけ件数が多いとページをめくる形での掲載や閲覧は大変なので、さっそく提供されている検索機能を使ってみた。「火災・火事・発火」で検索すると約5600件、「破裂・爆発」では約1000件、「墜落・転落」では約250件、「はさまれ・巻き込まれ」では約100件という結果だった。「火災」が特に多くなっている理由のひとつは、何がどのように危険なのかを漠然としか知らなかったり、気にかけていなかったりすることがある消費者の安全のために、製造事業者や消費生活センターが積極的に事故を報告していることや、製品評価技術基盤機構側も情報収集に力を入れていることが挙げられよう。また、法律改正のいきさつから、ガス湯沸かし器などの燃焼器具と家庭用電気製品が全事故情報の約2/3を占めていることもその要因と思われる。

事故情報のそれぞれには、1~2行の簡単なものではあるが、事故の内容も記載されており、さらに原因についても分類がなされている。その分類結果によると、消費者の不注意や誤使用などが約6000件と多く、製品に起因する事故は約4500件だった。ただ、原因不明や調査中のものが合わせて6000件以上もあった。詳細な情報をしばしば得にくいことや件数が膨大なことのためわからなくはないが、少々気になってしまう。

ところで、産業災害の統計は長く続いているが、対象としている事故は、その事故によって死亡するか、あるいは、病院での治療が必要となるようなある程度以上のケガを負った事故、また多くの場合にその作業には危険があることを事前に承知していた中で起きた事故、である。このため、両者の発生件数などを直接比較することには、ほとんど意味がないが、事故情報の分析の手法や考え方は応用できそうだ。一方、一般消費者が陥りやすい誤使用や不注意を分析することが、産業現場での事故防止対策のヒントとなるかもしれない。もちろん、製品の設計や品質管理に関する問題は、産業現場にもあてはまるだろう。一般家庭と産業現場では、作業目的、作業環境、安全意識も異なるから、表向きの事故原因は異なるように見えているけれども、根本的な原因は似通っているものと思うからである。