セーフティー・はーと

セーフティー・はーと

第96号 リスクとは?

大谷英雄 <横浜国立大学>
JIS Q 2001によれば,リスクとは「事態の確からしさとその結果の組合せ,又は事態の発生確率とその結果の組合せ」となっている。
安全工学の分野では,この定義の後半部分を使うことが多いと考えられるが,生態系,金融,経営といった事態の発生確率を推定することが困難な分野では前半部の定義が使われるようである。確からしさというのを無理やりに数字で表してしまえば発生確率と同じになってしまうのであろうが,数字で表さないことを良しとする考え方もあるようで,あくまでも確からしさという表現となっている。発生確率を推定する根拠あるいは手がかりすらないということであろうか。

しかし,もともとのリスクの語源は「絶壁の間を敢えて船で通り抜ける」というものであり,ジーニアス英和辞典には「みずから覚悟して冒す危険」という訳が載っている。すなわち,リスクとは自分が主体的に立ち向かうことのできるものというニュアンスがある。それに対して我々,安全工学に携わる者が普段扱っているリスクはどうであろうか。確かに産業分野におけるリスクを事業者が評価する場合には,みずから覚悟してリスクを冒していると言ってよいと思うが,それを周辺住民や,あるいは行政から見たらどうだろうか。行政にとっては,税収などのメリットもあるのだからみずから覚悟してリスクを冒しているのかもしれない。しかしながら,周辺住民にとっては,みずから覚悟してる人がどれだけいるだろうか。

昨今はRCやCSRといた,周辺住民などとのコミュニケーションを重視しなければならない経営環境となってきている。事業者が周辺住民といわゆるリスクコミュニケーションを行う場合には,周辺住民に「みずから覚悟して」と思わせる,何らかのインセンティブが必要なのではないだろうか。

第95号 真夏のできごと

上野信吾 <(株)三菱総合研究所>
関西電力・美浜発電所3号機で二次系配管破損による蒸気漏れ事故が起こったのは,1年前のお盆休みの直前であった。
この事故により,関西電力の協力会社従業員5名の尊い命が失われるとともに,関西電力への信頼,原子力への信頼も大きく揺らぐこととなった。事故から1年を迎えて,関西電力は安全に対する社長の宣言と5つの行動基本方針を掲げ,安全の誓いをホームページに掲載した。この中で事故の直接的な原因の背景に,「安全を最優先するという意識が私たちの中に十分浸透していなかったこと」をあげ,反省を表明している。

最近,JR西日本福知山線の脱線転覆事故,相次ぐ日本航空のトラブル(奇しくもJAL123便事故の20年目の翌日にJAL子会社のエンジン部品落下事故が発生)など,いわゆる名門大企業で国民の不安を煽る安全上の事案が多発している。事故やトラブルの直接的な原因は機械の故障であったり,人的ミスであったり様々であるが,こうしたハザードが顕在化しないように整えられている筈の仕組みやシステムが「機能しなかった」結果,事故やトラブルとして露呈してしまったケースが多い。「機能しなかった」要因には企業組織の問題(例えば,無理な作業要求や作業手順,職場内コミュニケーション,教育・訓練など)が指摘され,その背景には企業組織の安全意識・風土,安全文化の問題があったとされる,安全の専門家の間で「組織事象」と呼ばれる事案であることも少なくない。

安全文化はチェルノブイリ原子力発電所の事故後に国際原子力機関(IAEA)が提示した概念であり,その詳細については他の記事や文書に譲るが,企業経営に密接に係わる組織風土や文化(安全に対するものも含む)の問題は従来直接的にも間接的にも規制を受けるべきものではないと考えられてきた。しかしながら,先にあげた事例の他にも目に余る事故や不正,事件に対して社会が不安を覚えることを見過ごすことはできず,様々な産業分野で国は安全に係わる規制を強化する動きに出ている。

少子高齢化,産業・経済のグローバル化,情報化など社会環境が大きく変わりつつある中,企業も変革を余儀なくされている。変革することは容易ではないが,これまで信じてきた価値の延長を追及するばかりでなく,新たな価値を標榜し,従業員の意識を揃え,組織やシステムを見直すとともに,それらが企業の中身である人や組織に歪が生じることのないようにする,慎重かつ大胆な対応が安全を担保する上で必要なのだと思う。真夏に,蝉が土中の世界の幼虫から空中の成虫へ脱皮するように。

第94号 スペースシャトルの打ち上げ成功

板垣晴彦 <(独)産業安全研究所>
約2年半ぶりにスペースシャトルが打ち上げられた。予定通りであり順調に進んでいるとのこと,再開までの困難を乗り越えた関係者の成功をまずは祝したい。
前回のコロンビアの爆発事故では,当然さまざまな批判や意見が述べられたが,今回も先日の打ち上げ直前の延期問題が生じ,マスコミ記事は絶え間なかった。

7月13日の延期の原因は,4つある外部燃料タンクの液体水素残量センサーのうちの1つが燃料が枯渇しているのに燃料があるという誤作動を起こしたからだ。打ち上げを延期し,常温での試験・調査を行い,ある程度の絞り込みはできたそうだが,結局,原因が特定されなかった。特定するには測定相手の極低温の液体水素を実際に充填してみる方法が有効だが,タンクの巨大さ,日程の問題から実験が非常に困難であり,実施されなかった。 
そして,従来の飛行許可条件を緩和して,試験をしながらのぶっつけ本番とも言える今回の打ち上げに至った。このNASAの姿勢には批判も多く,「安全対策が不十分」とする報告書もある。しかし,NASAは「何重もの安全策を講じてある。ロケットという先端技術ですべて100%安全などあり得ない。そのリスクが許容範囲かどうかが問題だ」と説明する。

シャトルの部品数は250万以上という。開発初期の技術であれば,「想定していなかった要因」による事故がしばしば起こる。「想定」がなけば,リスクを見つけることも評価することもほとんど不可能。だから,少なくともわかっているリスクについては,万全を期す。「同じ失敗は二度と繰り返さない」ということが必須なのだ。 
ところが,時を経て,さまざまな失敗・事故を体験すると状況は変わってくる。失敗・事故の発生するのかどうかだけでなく,それによる悪影響はどの程度か?影響する範囲はどこまでか?を考える。そして,その悪影響の程度と範囲をできる限り抑え込もうとする。未然に防ぐことが最大の安全策ではあるのだが,システムが巨大になればなるほど,確実な実行がますます困難になる。 
一方,巨額の開発費をつぎ込む国家プロジェクト級の技術開発では,できる限り計画に沿って結果を出していかねばならず,原因の究明にばかりに時間を割くわけにもいかない。

冒険・挑戦とは「危険・未知」に立ち向かうこと,「安全」とは相反するのではないか。コロンビアの時に問題になった耐熱タイルが今回もごく一部らしいがはがれたようだ。今,実機で命をかけて実証実験をしている挑戦者たちに拍手を贈りたい。

第93号 システムの安全設計

天野 <出光興産>
安全の職務に携わる者として,決していい話題ではありませんが,最近,新聞紙上で産業事故等が大きく取り上げられています。
過去,昭和48年から50年頃に化学プラントで事故が多発し,社会問題として騒がれ,安全に対する社会の関心を呼んだ時期がありました。それを契機に企業の安全の取り組みが一段と加速され,安全と名のつく講習会が繁盛していたのを思い出します。

昭和50年頃から見れば現代の方がハード面,ソフト面での安全性は格段に向上しています。安全性が向上し,現場で働く一人ひとりが一生懸命,安全を確保するため,力を入れて安全活動を行っている現状から,現在も50年頃と同じように事故が続くのは,不思議でなりません。今までの安全に対する取り組みに何か忘れたものがあるのではないかと思っています。

話しは変わりますが,「安全対策をいくらとっても事故のリスクは変わらない」(ジェラルド・ワイルド)という,あまりうれしくない奇妙な説があります。データ的には否定されていますが,ひょっとしたら,現場を取り巻く安全体制が整備され,その機能が強化され,現場での教育もシステマティックに行われ,いろいろなところで安全の配慮がなされた結果として,危険を意識して仕事を行うということに変化が現れて来た兆しではないでしょうか。

安全な環境に置かれると,あえて心の中に不安や危機意識を呼び込み,緊張状態を作り出すようなことはせず,危険に対する意識がどうしても薄れて来るのではないでしょうか。フェーズの理論にもあるように,人の意識レベルは0からⅣまでの間を揺らいでいます。このような前提から安全対策を考えた場合,重大事故に繋がる部分については,ハードによって事故が回避されるようなシステム設計が必要不可欠と考えます。今後,このような観点からシステムの安全設計についての議論が多くなされてくると思っています。

第92号 安全のゴールはあるのか?

岡田 <三井化学分析センター>
先日,会社主催の九十九里浜 約70kmを歩く(走ってもよい)という行事に参加しました。 
参加したのは,今回で3回目です。1回目は,新入社員の時,2回目は,2年前,です。 残念ながら,過去2回は,天候や体調不良で70km完歩できずに悔しい思いをしていました。 今度こそは70km踏破しようと朝4時から延々と歩き始めました。
歩く間には様々な葛藤と戦いました。もうやめよう。もう少し頑張ろう。今度頑張ればいいじゃないかなど。 
歩きながら,ふと安全について考えました。安全にゴールというものは存在するのか? 安全に関しては,これで良い(完璧)ということはないのではないか。 
ここまで実施したという中間地点は存在するもののゴールなんて無いのでは?安全に関しては作業自体をやめてしまうことがゴールなのか? 
かといって,何もしなければ進歩はないし,ベネフィットも得られない。 
安全活動をしなければ運を天に任せるだけではないのか? 一歩一歩確実に,今より安全に,が積み重なって見えないゴールに向かっていかなければベネフィットが得られないではないかと思います。

70kmのゴールは,今年も見ることができませんでした。ゴールはあるのでしょうか?

※ちなみに70kmのゴールは存在して5時間半で走りきった人もいます。