セーフティー・はーと

セーフティー・はーと

第76号 安全教育

土橋 律 <東京大学>
私は,いくつかの安全関係の委員会等に参加する機会があるが,そのような席で,例えば化学プラントの安全を確保するためには何が必要かと考えていったとき,PDCAによる管理サイクル,リスク評価,設備対応,保全や変更管理などやるべきことは
様々挙がってくるが,突き詰めていくとどうしても外せない重要なものは安全教育であるという点に行きあたることが何度かあった。様々な管理が効果を発揮するのも,作業者の安全への十分な認識が必要なわけであり,高度な安全設備を設置していても使用者が適切な使用法を理解していなければ役に立たないわけである。さらに,事故や災害の原因の多くに,ヒューマンエラーが関与していると言われているが,この点からも人間に対しての安全対策,すなわち安全教育が事故・災害防止に重要であることが理解できる。

このように安全を確保する上で,安全教育は無くてはならないものであることは自明と考えられるが,それでは,筆者は教育機関である大学に所属しているわけであるが,学校教育において安全はどのように取り上げられているのであろうか。残念ながら,大学においては,高等教育を受けた者の持つべき一つの素養として安全を位置付けていないのが現状である。もちろん,専門科目として安全に関係した講義は存在するし,学生実験のガイダンスでは通常安全上の注意が説明される。しかしながら,これらは関係する学生のみが受講し,在学中に必ず習得すべき位置付けにはなっていないのが現状である。小,中,高等学校においても,安全教育を必修項目として位置付けてはいないようである。安全文化の醸成などということがよく言われるが,そのためには子供の頃からの安全教育が是非必要と考えられる。小学校から大学まで,系統的・計画的に安全を教えることが必要ではないだろうか。安全の重要性に始まり,事故・災害をどのように防止するか,個人・企業・行政の果たすべき役割と責任などを系統的に教え,安全・安心な社会を支える次の世代を育成することが是非必要であると感じている。

最近,大きな事故や災害が発生すると,関係する企業や行政の責任追及にばかり目がいくように感じられる。安全教育を充実して,安全に関するしっかりした考え方,知識をもった人間を世に送り出していくことが,最終的にはこのような事故や災害の重要な対策となることにも,もう少し目を向けて欲しい。

第75号 安全工学あるいは安全工学協会の今後?

田中 亨
昨年は,大規模産業施設での火災事故が続発しました。今年は,大雨と台風による被害が多く発生しています。ご承知のように,例年,日本列島に上陸する夏台風は少ないのですが,今年は,8月末の時点で,すでに5つの台風が日本列島に災害をもたらしました。
被害は,6月の台風6号(死者2名/行方不明者3名/重傷者19名/軽症者99名,消防庁発表,以下同順序)から始まって,7月13~16日の新潟・福島豪雨(15名/1名/3名/1名),7月18~21日の福井豪雨(4名/1名/4名/15名),7月30~31日の台風10/11号(1名/2名/3名/16名),8月17~20日の台風15号と前線に伴う大雨(10名/-名/6名/16名),8月30~31日の台風16号(10名/3名/31名/209名)などです。(ここには記しませんでしたが,被害は人身災害に加えて,家屋損傷/浸水,田畑冠水などの多大な経済損失が含まれています。) 産業施設での事故災害の規模に比べると,被害者の数は大規模事故に相当し,その発生頻度も(今年の例では)極めて高いレベルにあります。自然災害に関しては,様々な領域で研究が進められていますが,災害防止/環境影響軽減するための総括的研究がこれまで以上に進められるべき分野と考えます。

安全工学協会のホームページに掲載されている安全工学協会概要の中の趣意[安全工学の社会的な役割(2000年2月14日更新)]の中の“3.安全工学の今後の方向”の項には,「(1)社会の安全を確保し,その安定化を図ることは,工学の一つの責務であり,その方法論について他の研究分野と協力しつつ確立していく。」と将来展望が書かれています。これまで,安全工学協会のメンバーは,化学物質や化学装置/施設に関連する安全問題,環境問題を研究あるいは関係する方が大半と思いますが,前述のように多大な被害を生じさせている自然災害の分野へも安全工学を応用展開(無論,他の領域の研究者と協力の上)してゆく必要性はあると考えます。また,この展開は,安全工学協会の意図している安全工学の社会的な責務“社会の安全の確保,その安定化”に合致していると思われます(趣意を書かれた方の意図を拡大解釈している可能性がありますが)。安全工学協会メンバーは,これらの分野での安全工学の展開について,如何にお考えでしょうか?(すでに,研究されている方がいるかもしれませんが。)

昨日は,防災の日でした。その9月1日夜8時過ぎ,浅間山が噴火しました。9月2日午前8時現在,被害は,噴石落下と降灰,それに長野原町の観光施設の玄関窓ガラスが空振 (空気振動)で破損と報じられています。農作物の被害状況は不明ですが,人身被害は発生していない模様です。将来は,噴火災害防止も安全工学の研究対象になり,火山研究者も安全工学協会のメンバー?

第74号

高野研一
昨年から三重県のRDF発電燃料火災をはじめとして様々な業界で事故が多発している
一方,事故ではないが,三菱自工のリコール問題は問題の深刻さを浮き彫りにしている。

長く続いたリセッションから明るさを取り戻そうとしている矢先に水を浴びせられたような気がするのは,筆者だけであろうか。

これは社会全体の意識変革が起こる前触れと捉えたい。というのも,安全文化や倫理コンプライアンスで重視される価値共有という概念が社会のあちこちでみられるようになったからである。NPOなどの非営利法人の設立ラッシュ,地域コミュニティの発達など個と小集団,集団と組織のあり方に根本的な変革が起こりつつあると感じられる。

第73号 「安全はすべてに優先する!」か?

大谷英雄  <横浜国立大学>
私自身も企業に勤めていた時には「安全はすべてに優先する」という標語を覚えさせられたし、現在もそう言っている企業は多いことと思う。なぜ、そう言わなければならないのだろうか?つまりは安全はすべてに優先していないという実態があるからそう言っているのではないだろうか。安全がすべてに優先していればここのところ目立っている企業倫理の問題なども起きないと思うのだが、安全がすべてに優先していないことは事実が証明している。安全より企業の収益等が優先していることを隠すために免罪符として工場内のいたるところに「安全はすべてに優先する」と掲示しているのではないか、という気がしてならない。
これはむしろ経営陣が深く心に刻んでおくべき評語だと思う。なお、この場合の安全は元々は労働安全に限られていたのだと思うが、今はそういう時代でもないので、より広い安全を指しているものと解釈した。
 一方、安全工学では安全という状態は達成できず、リスクが小さい状態があるだけという認識なのであるから、ただ安全とだけ言われても困るし、リスクを減少させる場合にも、他の事を無視してリスクを下げることだけを考えることはあり得ない。原子力の世界でも合理的に達成できる限度までリスクを下げるという言い方がされており、現状の科学技術や経済性による限界を容認している。(容認しているのは技術者だけで市民の理解は得られていないようではあるが。)現代社会をすべて否定するならともかく、現代社会の恩恵を享受しているのであれば、リスクをある程度は受容するという考えに立つべきであると思う。
 評語としては簡潔なことが求められるというのは分かるが、いつまでも「安全はすべてに優先する!」と主張するのはいかがなものだろうか。

第72号 安全・安心を取り戻すのに私たちができることは?

<三菱総合研究所 上野 信吾>
小学生のS君が数人の仲間とサッカーボールをかごに入れて自転車をこいできた。「あ、Rのお父さん。」「これから練習かい?今日お父さんは何してる?」「知らなーい!」とすれ違いざまに会話を交わす。
 7月15日に内閣府が「安全・安心に関する特別世論調査」の概要を公表した。この調査の中で、「今の日本は安全・安心な国か?」の問いに対してそう思う人は39%、そう思わない人は56%となっており、残念ながら今の日本を安全・安心と感じている人は少数派となってしまったようだ。安全・安心と思わない理由の上位に「少年非行、ひきこもり、自殺など社会的問題が発生している」「犯罪が多いなど治安が悪い」があがっており、比較論では片付かないとは思うが、海外で起きている様々な過酷な事件を日頃メディアで見聞きしている以上に、近頃、日本の安全・安心感を損なう事件や事故、生活を脅かす先行き不透明なことが多すぎるということであろうか。
 調査の中では「一般的な人間関係について」の設問もあり、人間関係が難しくなったと感じる人は64%、そう感じない人は29%となっており、人間関係が難しくなった理由として「人々のモラルの低下」「地域のつながりの希薄化」が上位を占めている。内閣府では、家庭の崩壊や地域のつながりの変化が、多くの国民に日常生活の不安を感じさせている要因ではないかと見ているようだ(読売新聞Webより)。
 都市化や少子化、ワークスタイル・ライフスタイルが変化する中で、確かに地域のつながりが希薄になってきている気がする。近所づきあいが煩わしい、面倒くさいと考える人も多いと聞く。しかしながら、防犯、防災で最も頼りになるのは地域の人たち、遠い親戚よりも近くの他人であるということも、「地元」という生活資源を共有することの強さを考えると納得できる。地域の人たちがお互いを知っている街では、何となく監視されているようで不届きな輩も悪事を働きにくいのではなかろうか。
 地域のつながりということを考えたとき、かつてどこかで経験した冒頭のような何気ない日常の姿を思い浮かべた。地域の有機的なつながりは大人同士、子供同士の点と点のつながりのみならず、世代を超えた網のようなつながりであって欲しいと思うし、私たちにできる安全・安心を取り戻す一歩になることだと感じる。