セーフティー・はーと

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第136号 ヒューマンエラーとペナルティ

和田 有司 <独立行政法人産業技術総合研究所・安全科学研究部門> 2011年10月6日掲載
NPO安全工学会では,保安力評価システムの構築を進めている。
保安力評価は,生産技術における安全確保の仕組み(保安基盤)とそれを活性化させる人間系(安全文化)の項目をそれぞれ評価することによって実施することが検討されている。これらの評価項目の詳細については,安全工学誌や安全工学シンポジウムでの講演で紹介されているので,ここでは省略する。

先日,この安全文化の評価項目について検討するワーキンググループで,「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」は安全文化として重要であるかどうか,という議論があった。

ヒューマンエラーに対して,ペナルティを科すことなくその原因を追及し,必要な対応をとる,というのは理想的ではあるが,実際にはなかなかそうはいかないらしい。例えば,故意にルールを逸脱した場合やうっかりミスの場合は,しっかり罰しないとダメだ,ということのようである。

残念ながら筆者は実際の現場のことはよくわからないが,それでもヒューマンエラーにはペナルティを科すべきではない,と思う。故意にルールを逸脱する行為にしても,その背景には何か原因があるはずである。手順の省略であれば,どこかに時間に対するプレッシャーがあるのかもしれないし,そもそもルールが守られにくい内容なのかもしれない,そうでなければ,なぜそのルールを守らなければならないという"Know Why"の教育が足りないのかもしれないのである。うっかりミスも,その背景には過重労働や作業のチェック体制に問題があるかもしれない。

ヒューマンエラーに対して,そういった分析をしっかりやって,可能な限り対策をとること(資金や時間の問題で手が回らないところは,理由を示して十分に注意喚起する)が大切で,ペナルティを科すことによって効果を得ようとしても,のど元過ぎれば・・・になる可能性が高いと思う。

安全文化の評価に話を戻す。「人的過誤(ヒューマンエラー)に対してペナルティを科さないこと」と言われたときに,そんなことは無理だ,という企業(や事業所)に対しては,ヒューマンエラーをどこまで分析しているか,が評価の分かれ目になるであろう。ろくに分析もしないで作業者に責任を押しつけているようではダメなのである。

第135号 安全第一 とは

若倉 正英 <独立行政法人 産業技術総合研究所> 2011年8月26日掲載
安全工学会では、小野会長のご尽力で石油化学産業の社長経験者また現職の社長さん方との意見交換を何度も行い、安全に関する社長の役割についてとりまとめている。
意見交換会に同席させていただいたおり、トップの方々に共通する思いが2点あるように感じられた。1点目はお題目としての「安全第1」はあまり意味がないといわれる方が多いことであった。安全が必須なのは当然であって、その上に企業の存続と発展があるのだが、それを社員にどのように理解してもらうのかに苦慮されているという。ある社長さんが、「若い社員達はボランティアに関心が高く、東北大震災への対応も生かして、企業の社会貢献の重要性を基盤に安全の意義を浸透させたい」といわれていたのが心に残っている。若者のボランティアへの関心については、社員教育を主な業務とする会社の方からも同じことを聞いている。

第2は自社の安全のレベルや安全風土の弱点についてであった。安全部門を含めて一生懸命取り組んでいることは理解しているが、会社の運営に全責任を負っている社長さんとしては、業界内での安全上の位置づけを知りたいというのは、切なる思いのように感じたのであった。

なお、社長の役割についての意見交換の経緯や提言は、安全工学誌Vol.50 №3・№.4で報告されている。

第134号 東日本大震災における「避難」の実態についての雑感

藤田 哲男 <東燃ゼネラル石油株式会社> 2011年7月11日掲載
早いもので、東日本大震災の発生から、二ヵ月半も経ちましたが、依然として、福島第一原発は収束の見込みがはっきりせず、何とかその方向が一刻も早く見えるようになることを切に願っている毎日です。
一方、大震災の事故解析は進みつつありますが、最近、都心からの帰宅困難者の問題が取り上げられていましたので、今回は「避難」の課題について考え直してみることにしました。

当日の「避難」の実態を追ってみると、その準備のあり方およびその実際の実施方法によって、大きな差異があったようです。たとえ、準備をしていても、想定外の津波の大きさには到底対応できなかったケースもありますが、きちんと綿密に対策を取っていれば、助かったケースは多かったと考えられます。車で避難しようとして、却って渋滞で命を落としたケースも多々あったようですが、車の機能を過信してはいけないと言うことのようです。「まさか」とか、「まだ、大丈夫」とかの思い込みで被害にあった例も多かったようです。改めて、大震災に向けた「避難」要領を見直して、その実施訓練を早期に計画する必要があるように感じました。

また、都心からの帰宅困難者の問題については、皆一斉に帰宅に向かえば、却って危険な状態に陥る可能性が高いことが実証されたようです。帰宅の動機は、家族の安否確認が取れない、家族に早く会いたいと言うことが多かったように思われますが、安否確認方法や携帯電話等の連絡手段の向上を図り、都心での避難対策をもっと充実させれば、ある程度は解決されるように感じました。

つい先日も、死亡事故に至らず幸いでしたが、JR北海道石勝線トンネル内での特急列車火災事故では、まさしく「避難」のあり方がことの大事を左右しました。問題は、避難誘導がJRによってなされなかったことです。想定、想定外の是非はともかく、ここは真摯に不備を認め、再発防止に努力する姿勢が求められていると感じました。

第133号 放射線化学と原発事故

中村 順 <財団法人 総合安全工学研究所> 2011年5月30日掲載
私は、大学院を放射線化学教室でお世話になりました。放射線化学とは電離放射線を物質に照射したときの化学反応を研究する学問で物理化学の範疇です。
水に放射線を照射すると水分子のイオン化、励起により、水素原子、ヒドロキシルラジカル、水和電子が生成します。引き続き反応により水素ガスや過酸化水素などが生成します。酸素ガスは発生しません。放射線環境下に水があれば水素が発生することは昔からよく知られている事実です。溶液の場合には、それらの活性化学種と溶質との酸化還元反応などによりさらに他の生成物が生じます。細胞に放射線照射したときには、水分子から生じるラジカルと生体構成分子との間接反応や、生体構成分子の直接のイオン化などによりDNAなどの鎖の切断、架橋などの反応を起こして、生体内でうまく修復できないと傷害が現れたり、突然変異が起きて発がんをしたり、遺伝的影響を及ぼすことになります。

一方、私は大学院修了後、科学警察研究所で爆発事故の原因究明の仕事を長年し、数多くの爆発事故現場を見てきました。今回の原子炉建屋の爆発事故については、水素爆発と不正確な言い方がなされていますが、水素だけでは爆発しないので空気(酸素)と混合し、それに何らかの着火源により着火爆発したものと考えられます。水素ガスの可燃性を示す濃度範囲、着火エネルギー、圧力の影響など多くのデータが公表されており、いかに爆発事故を防ぐか安全工学の基本的な事項でもあります。一方で原子炉事故に関しては、水蒸気爆発の可能性も指摘されています。昔、水蒸気爆発のメカニズムがよくわからない時代に、高温の物体に接触した水が酸素と水素に分解して,それが再度反応してガス爆発を起こすと言われたことがあります。しかしながら現代ではそれでは現象を説明できず,水の急激な気化による物理的爆発として知られています。水と高温の物体との接触の状況の違いにより、突沸や噴出程度から凝縮相爆発に近いような強力な爆発まであり、その原因解明は比較的難しいものです。

事故原因の解明に科学者や技術者としては、起こっている事実をいろいろな角度から検討することが必要です。専門家とか解説者などという方々が発言されていますが、正確でない部分もみられます。運転状況の調査や、詳細に現場観察することができない状況では、推測しかありえないでしょうが、その言葉の責任はどうとられるのでしょう。

さらにインターネットや今回の事故に関連して急遽出版された本屋に並んでいる本にはなかなか必要な情報に行き当たりません。原因究明も難しいのに、一方的原因を書いて過失の追及を熱心に行っているサイトも見られます。

中国の漢の時代のことを書いた漢書という本にみえる語で「実事求是」という言葉があります。実証を重んじ,証拠のないことを信じない態度をいいます。このときだからこそ、自らの考えで判断されることが必要だと思います。

第132号 第三者というもの

土屋 正春 <株式会社 三菱総合研究所 科学・安全政策研究本部> 2011年4月25日掲載
「第三者認証機関」という言い方は、国際標準的には正確ではない。
なぜなら、「認証」というものは、第三者によって行われるものと定義されているから、という理由である。ものを作ったり売ったりする人が第一者、それを買う人が第二者。第二者としては、その取引にあたって、第一者がごまかしていたりすると困る。そこで正当性を確認するための存在として、どちらからも独立した第三者が登場することになる。

企業の品質マネジメントシステムや環境マネジメントシステムの認証を行っている組織は、この第三者。この面では、品質や安全が確保されていることを証明する合理的な方法として、日本でも認識されてきたといえる。しかし、一般には、第三者の考え方が定着しているとは思えない。市場に流通する商品を良く見ると、安全や品質を確認しましたという意味の多種多様のマークが表示されている。それらには、第三者が付けているマークもあるが、実は第一者が付けているマークも数多い。製造した企業や業界団体が、自らの製品の安全性や品質の確認を宣言することは悪いことではない。しかし、それがなんとなく客観的な証明として受け取られてしまうとしたら問題だろう。製品に表示されているマークを見かけたら、第三者という立場からも考えてみていただければと思う。