セーフティー・はーと

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第131号 地震津波災害の大きさに圧倒されての雑感

西 晴樹 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2011年3月22日掲載
2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。
最大震度7を記録した東北地方太平洋沖地震と名付けられたこの地震は、その大きさもさることながら、引き起こした被害の大きさは、まさに未曾有のものです。

地震が発生すると、筆者の携帯電話に連絡があるのですが、3月11日午後は携帯電話が鳴り止みませんでした。

直後に、報道各局のカメラが捉えた大津波の映像がテレビに映し出され、炎が津波に合わせて移動していく様に恐怖を感じました。

この原稿を執筆している段階で、死者3473人、行方不明者7355人、負傷者2333人となっており、人的被害の大きさも想像を絶するものでした。ただ、亡くなられた方のご冥福をお祈りするばかりです。

原子力発電所の爆発火災、津波による建物や石油タンクの倒壊、コンビナート火災、石油タンク火災、危険物の漏洩、石油タンクの浮き屋根の沈没などの事故が発生し、一つだけ見ても大変な事故なのに、それが同時多発で発生することはあるかもしれないが、可能性はほとんどゼロだろうと漠然と思っていました。

街、石油コンビナート、原子力発電所を高さ10mの防潮堤に囲まなければ今回の津波被害を完全に防ぐことは難しかったでしょう。「高さ10mの防潮堤」を想像する度に、今回の巨大地震が発生するよりも「ありえない」と感じていたのも否定できません。

しかしながら、実際に巨大地震は発生しました。改めて日頃の想像力が如何に足りなかったかを思い知らされました。地震の発生を止めることは恐らくできないでしょうから、この日本で暮らしていくためには地震とうまく付き合っていくことが重要なのでしょう。地震学者によれば、今回のような地震は1000年に1回だとのことですが、1000年前の平安時代の人も生き残って今日の日本があるのですから、現代の私たちも今回の地震被害にくじけたりせずに、なんとか生き抜いて、より安全な社会を作っていくことが肝要と思います。

第130号 親切な案内と産業保安

高木 伸夫 <システム安全研究所> 2011年2月18日掲載
初めて日本に来た外国人が、日本には標識が多いのに驚くということを聞いたことがある。
交通標識はしっかりしているし、街中においても、また、名所・旧跡においても多数の道案内や標識が見受けられる。目的の場所に行くのにも自分で考える必要もそれほどない。これは列車においてもいえることで、行先や停車駅の案内、マナーやお願いに関する車内放送がおせっかいなほど多い。とにかく親切な表示や案内が多く、どこに行くにも、何かを探すにも便利でありイージーである。これらは日本人の几帳面さや親切心によるものといえようが、だがちょっと待てよ、知らず知らずのうちにみんなが同じ方向を向いてしまっているのではないだろうか。案内の通りに行動すればそれほど考える必要もなく確かに無難であるが、こんな道もあったのか、こんなところに神社があったのか、といったような思いもかけない発見の楽しみを奪っていないだろうか。自分でいろいろと考えて行動すると、大きな回り道をしてしまうかもしれないというリスクもあるが貴重な体験が得られるともいえよう。

この標識などの案内と同様のことが日本の産業保安における安全管理にも言えることではないだろうか。産業保安においては仕様規定型の法令を順守するという構造が長く続いてきた。仕様規定型の長所は、そのとおりやれば誰でもが一定の成果が得られるという長所はあるが、それは逆にそれさえやっていればよいという安易な方向に走り、思考の停滞を招き、新しい技術や方策、管理体系を模索する努力を失わせてしまうことになりかねない。法令順守は当然であるが、社会の多様化、技術の多様化が進んでいる時代においては、法の枠組みを超えて、それぞれが今より一歩先の安全目標を設定し、自分で考えて安全確保の方策を策定し実行していくことが必要といるのではないだろうか。

第129号 安全・不安な社会

大久保 元 <株式会社 エックス都市研究所> 2011年1月20日掲載
最近は「安全・安心な社会の確立」とか「安全・安心な社会の構築」とか「安全・安心」というキーフレーズがよく使われているように思いますが、私はやや違和感を覚えます。
「安全」の部分には全く反対しませんが、「安心」の部分にはおいそれとは賛同しかねます。

安全な状態を担保するためには、社会に棲む人々が日々懐疑的精神を失わず、あらゆる事象を疑い、自らの頭で考えた上で、適切な判断を下すという姿勢が不可欠であると思います。したがって、「安全・安心な社会」と一気に縮めるのではなく、各人が感じる「不安」を端緒とし、懐疑的精神に基づき、十分な思考や行動を重ね、その結果として「安心」を享受するという社会、つまり、縮めるのであれば、敢えて誤解を恐れずに「安全・不安な社会」とでもした方が望ましいのではないかと考えています。

第128号 ノーベル 安全工学賞

岡田 理 <三井化学株式会社> 2010年12月6日掲載
2010年 ノーベル化学賞を鈴木先生、根岸先生が受賞され、日本に明るい話題が走った。両先生は、出身校などで講演をされ、研究に対する情熱などを語られている。
2000年以降、ノーベル化学賞、物理賞で同時受賞など日本人受賞者が増え、日本の科学が注目されている。ご存知の通り、ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベルが自分の遺産を人類のために貢献した人々に還元するようにと言う遺言から始まったとされている。ノーベル賞には、物理賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の6部門がある。ボーダレスの昨今、物理賞、化学賞、生理学・医学賞の領域の違いがわかりにくくなってきているような気がする。将来、自然科学賞などと一括りにされることがあるかもしれない。人類のために貢献しているのは、自然科学だけではなく、工学もまたしかりである。むしろ、工学の方が直接貢献しているのではないか。ただ直接貢献しているが故に、経済的メリットを受け商売につながり、ノーベル賞を与えなくても技術が注目されるということであろうか?

また、そもそもダイナマイトの発明者のノーベル氏にふさわしい安全賞もしくは安全工学賞というのがあっても良いのではないか?安全は、重要と言われつつも中々経済的メリットと結びつきにくく、発展するためには、いくつか壁を乗り越えなければならないような気がする。そのためにも将来ノーベル安全工学賞ができることを望む。

第127号 安全・安心

飯塚 義明 <有限会社 PHAコンサルティング> 2010年11月8日掲載
「安全・安心」はここ数年いろいろな場面で目にし、耳にもする。
食の安全・安心、社会不安に対する安全・安心願望が代表的である。最近、化学プラントの安全・安心と言うフレーズを見たときに前の二つの使用例に対して何か違和感をもち、ある種の不安感をもった。安全は、加害要因と被害要因との相対的な科学的事実であり、安心は個人又は集団の気持ちのあり方である。安心感をもつのは、被害者となる可能性をもつ側の心情であり、加害者となる可能性がある側がこの安心感を持つことは、油断という非常に危険な状況を潜在させることになる。安全=安心という勘違いの例として、化学プラントと離れるが、35年前、北海道の畑の中を通る国道のドライブしたときのヒヤリハットを思い出す。未舗装ながら直線で周辺に人影も無く、安心して漠然としたおしゃべりしながらハンドルを握っていた。そこに突然、エゾ鹿が数頭森から駆け出してきたので、想定外のこともあり、慌てて急ブレーキを砂利道で踏んでしまった。かなり横滑りしたが、幸い畑に落ちることも無く事なきを得た。まわりに見える事実だけで危険な状況にないと勝手な判断が一つ間違えば、同乗者も巻き込んだ重大事故に発展する可能性があった。あらゆる化学プラントは本質的に重大な保安事故につながる危険な要素が潜在している。地域住民や事業所関係者が安心して過せるように、それぞれのプラント担当者は、見かけの安全状態に油断することなく、堅実なプラントの運転を継続することを切に望むものである。

第126号 組織文化の効用!

高野 研一 <慶応義塾大学> 2010年8月18日掲載
事故を減らすためには、何が必要か、日々安全担当者は頭を抱えているかも知れない。
事故防止には職場に潜むリスクを直接減らす努力も必要であるが、ここで回り道かもしれないが、リスクを見出し対処するのは人間であることをもう一度考えてみたい。

我々が取り組んでいるのはいわゆる「安全文化」であり、リスクの減少に直接寄与するものではない。しかし、経営者から管理者、そして従業員まで、安全に関する価値を共有し、安全活動に魂を吹き込む効果が期待できる。

すなわち、安全活動や小集団活動を活発にし、コミュニケーション豊かなモチベーションに満ちた職場環境を創造していくことが目標である。これにより、あまり活発ではないリスク低減活動に自ら問題意識をもって取り組む効果を期待している。

また、命を守ることの意義と使命感を経営者にも共有してもらい会社全体でその理念達成を目標に自発的に進めていく環境を期待している。このような職場環境は事故防止だけではなく、生産性向上にも必須の要素である。

第125号 "安全の反対"を考えると見えて来るものは

松倉 邦夫 <安全工学会 事務局長> 2010年1月20日掲載
はじめるにあたり簡単に自己紹介をさせていただきます。
私は37年間、三共化成工業株式会社(現 第一三共ケミカルファーマ㈱)に勤務し、工業薬品、医薬品の原薬・治験薬などの技術、製造、環境安全部門に携わってきました。とりわけ苦労したのは、最後の職場となった環境安全部門でした。

技術部門では自分が或いは自分の目の届くメンバーに対して気を配って入れば済んだのですが、環境安全部門の守備範囲は、全工場の従業員さらには協力会社、出入りする業者の方々までが対象となりますので、それは気の休まることはありませんでした。またその中には、静電気に起因した出火事故や研究所の連続運転中の深夜のボヤなどと今改めて思い返しても溜息が出る日々でした。

会社生活で一番長かった技術部門は、約18年で会社人生のほぼ半分を過ごしました。業務は、研究部門で基礎合成を終えたフローを引継ぎ、コルベンスケール(500mL~10Lサイズ)、中量試製スケール(~500Lサイズ)そして、現場へと繋いで行き、現場製造が上手く行き落ち着くか、落ち着かないかにまた、次のテーマが始まる・・・、そんな生活を思えば18年間近くして来た訳です。

結局は、上手く製造が動いてホッとする間もなく、次のテーマが始まることから、頭の中は何時でも宿題だらけの、これまた思い返せば因果な仕事でした。でも、現場が予定通り動いた時には、一時ですが山行で言う山頂に立った爽快な思いでした。きっと世の技術・研究者は皆様同じ思いで日々を送っていることと思います。そして、それぞれのテーマには、何かしらの"峠"がありました。生産ベースに乗る収量(収率)に到達しない、製品の品質が規格をクリアーしない、現場で生産出来る操作性にならない、再現性が低いなど色々とありました。

幸いと言うか、私は電車通勤時間が片道1時間半以上ありましたので、電車の中は宿題を整理するのに格好の時間でした。"峠の先が見えない時"は、夢の中まで悶々とした日も何度もありました。

特に苦しいのは、生産日程が確定して、設備の新設や変更がどんどん進み、医薬品評価のphase(フェーズ)1,2,3とステップが上がるのに、"峠"がクリアー出来ない時は、最悪の精神状態です。反応条件を変える(但し、変更する範囲の制約があります。当初提出したサンプルと大幅な変更をすると、再度同等性の評価をすることになるので・・・)条件を模索する訳ですが、ある日、開き直りと言うか、苦しまみれにB型の私は、突拍子もない発想をしてみました。

それは、例えば"収量(収率)"が採算ベースに乗らなかった時、"もっと、収量が悪くなる方法はないか?"と言うことでした。何時でもメモ帳を持っていましたので、どうしたら、収量を悪化させられるかを色々と書き連ねてみました。そうしますと、悪くする方向のことは意外と思い浮かびます。

例えば、反応温度を高くする、撹拌を遅くする、触媒量を減らす、副原料のモル比を下げる、中間原料のグレードを下げる・・・・、そんな反対のことを書いたメモを眺めて、その反対のことをして行けばもしかしたら、収量向上の道筋が見えてくるのではと思い、次なる反応検討をする項目を探して行きました。

環境安全部門において、後半もっとも力を入れたのが安全教育でした。ある日、講習会で交通安全と絡めた安全の話をしました。私の講習は対話型で、先ず皆に「どうしたら車の交通事故を無くせるか?」と言う問いを出しました。皆は、制限速度を守り、信号を守る・・・、と出て来たところで答えが止まりました。

そこで、次に「どうしたら車で交通事故を起こせるか?」と問うと、皆、目を輝かせて答えがどんどんと出て来ました。制限速度違反をする、信号を守らない、携帯電話をしながら運転する、大きな音で音楽を聴きながら、車線変更をウインカーを出さないでする、急加速する、急ブレーキを踏む、片手ハンドルで運転する、ハンドルを持たないで運転する、高速道を逆走する、お酒・ビールを飲んでまたは飲みながら運転する、一時停止を止まらないで交差点に入る、一方通行を逆走する、踏切を一旦停止しない、自転車や歩行者の横をすれすれに通る、景色を見ながら運転する、カーナビを改造してTVを見ながら運転する、新聞を読みながら運転する・・・。 そして講習会の最後に私からの一言は「今皆が言ったことの"反対のこと"をするのが"交通事故を無くして行くこと"です。」

"安全確保することばかり教える"より、"こうすれば事故を起こせること"を考えて貰い・・・、そこで再度、その反対のことを考えると、案外"安全"が見えて来るかもしれません。ご安全に。

第124号 化学事故と安全操業への経営者の責任

若倉 正英 2009年11月5日掲載
21世紀に入っても化学物質による大事故が発生し、
市民や事業所周辺の環境に甚大な影響を及ぼす事例も少なくありません。
重大事故は機器故障や腐食劣化などの設備要因、人的過誤などが直接要因とされますが、その背後にある組織や人の意識の要因を掘り出すことが重要であるという認識が高まっています。特に、2005年に発生した英国石油の 米国Texas製油所、 英国 のBuncefieldの油槽所での事故はいずれも、経営者の利益優先に起因する運転員の質の低下が事故の要因となったと指摘されました。2008年にはイギリスでHSE(イギリス健康安全庁)主催の経営トップの在り方に関するセミナーが開かれました。また、OECD環境部門が策定した2009 - 2012年の化学安全に関する活動プログラムでは、化学事故防止に対する企業経営層の役割についての課題も含まれることになりました。これを受けて、第19回(2009年10月)の Working Group on Chemical Accidents (WGCA) で、本課題に関する分科会の設置が決定され、WG議長(ドイツ)から日本の参加が要請されています。

安全工学会でも産業の安全は経営者の姿勢によるところが大きいという認識から、トップマネージメントに関する安全教育セミナーを平成18・19年度に実施しました。現在この活動をさらに進めるための検討を行っています。会員各位のお知恵と協力を仰ぎながら、実効的な方向を模索していきたいと考えております。

第123号 残留リスクと危機管理

大谷 英雄 <横浜国立大学大学院環境情報研究院> 2008年9月19日掲載
まだ私自身の理解が混乱している面もあると思うが、以下は頭を整理する意味で書いてみたものである。
残留リスクとは、リスクアセスメントの結果として予想された好ましくないリスクを低減した後に残るリスクのことであり、リスクマネジメントにおいては、残留リスクが受容限度内であることが求められる。費用対効果を考慮して受忍限度内で低減対策を終了することもあるかも知れないが、これも含めて、ここでは受容限度と表現している。残留リスクが正確に見積もられていないならば、これが受容あるいは受忍限度内であるかどうかの判断はできない。したがって、残留リスクが正確に求められていることが必須である。

はたして残留リスクを正確に求めることは可能だろうか?リスクとは我々を取り巻く環境が複雑系であり、すべての要素の因果関係を正確に見積もることが困難であるので、我々がコントロールできる要素、および認知可能な要素に変動が生じるために生じるものである。つまり、リスクとは因果関係を正確に見積もることが困難であるために生じる概念であり、未知の要因・因果関係が残っている可能性を忘れてはならない。たとえば、化学プラントで言えば、いつ配管に穴が開くかが分かれば、その前に配管を取り換えればいいので、配管内の流体が漏えいするリスクは存在しない。しかしながら、配管を取り巻く状況により腐食の進行度合いは異なり、いつ穴が開くかという時期に変動が生じるためリスクが発生する。この他にも、隣接地域での工事等に使用する重機が接触する、大雪で高所に降り積もった雪の塊が落下する等により配管が折れ曲がり、破断して漏えいするという事故も実際に発生しており、このようなハザード要因も現実には存在している。これらを本当に正確に予想できるのだろうか?

リスクアセスメントは未来予測であり、我々が未来に起こり得ることをすべて予測できるのでない限りは、必ず予測できていないハザード要因があるはずであり、残留リスクを正確に見積もることは不可能である。それでは、リスクマネジメントは不可能なのであろうか?リスクアセスメントは、実施者の知識内でしか行えないものであるから、実施者一人一人ができるだけ多くの知識を蓄え、アセスメント実施の際に活用できるようにするとともに、いろいろな知識を持った複数の実施者で行うことが望ましい。こういう努力を払った上でも予測困難なハザード要因が残っていることを想定しておく必要がある。残留リスクは正確に見積もれないかもしれないが、合理的に説明できることについては、できるだけ広範囲に検討し、予測範囲内では正確に残留リスクを算出する。その残留リスクが受容限度内であれば、合理的なリスクマネジメントはできていると考えるべきであろう。

予測できていないハザード要因に対しては、それの発現確率を下げるような直接的な対策は困難である。安全文化の構築のような間接的な対策で、ある程度は下げることが可能かも知れない。つまり、このようなハザード要因は通常のリスクマネジメントの対象にはならないことから、これへの対処は危機管理の範疇となる。予測できていないのであるから、予め対応策を検討しておくことはできず、ハザードが現出してからそれへの対応を図る必要がある。なお、危機管理とリスクマネジメントを同じように使っている人もあるが、リスクマネジメントは予測が可能なことを前提としており、予測が可能な範囲では危機に陥らないようにマネジメントすべきである。

ここのところ食品の偽装に関して危機管理という言葉が使われるが、偽装が発覚した場合に企業の存続が脅かされるような事態になることは容易に予測が可能である。また、偽装の事実を永久に隠匿できないことも予測の範囲内のことである。したがって、このような事例はリスクマネジメントができていなかったと見るべきで、リスクマネジメントに多大な努力をしている企業の危機管理と同列に論じるべきではない。

第122号 事故情報をどう活かすか

板垣 晴彦 <(独)労働安全衛生総合研究所> 2008年2月18日掲載
ガス湯沸かし器やシュレッダーでの製品事故などが契機となって昨年5月に消費生活用製品安全法が改正された。
この改正とともに製品評価技術基盤機構のホームページ上にて製品事故の情報が公表されるようになった。新聞を中心にリコール広告がほぼ毎日掲載されるほどだから、事故情報となるとさらに多いだろうとは思いつつ最近のぞいてみたところ、なんと1万8000件近くの事故情報が待っていた。事故調査が進み解析をある程度終えたものから順次登録されているようなので、1996年ごろから2006年3月までの10年分だ。なお、最新の事故情報は速報の形で別に公表されている。

さて、これだけ件数が多いとページをめくる形での掲載や閲覧は大変なので、さっそく提供されている検索機能を使ってみた。「火災・火事・発火」で検索すると約5600件、「破裂・爆発」では約1000件、「墜落・転落」では約250件、「はさまれ・巻き込まれ」では約100件という結果だった。「火災」が特に多くなっている理由のひとつは、何がどのように危険なのかを漠然としか知らなかったり、気にかけていなかったりすることがある消費者の安全のために、製造事業者や消費生活センターが積極的に事故を報告していることや、製品評価技術基盤機構側も情報収集に力を入れていることが挙げられよう。また、法律改正のいきさつから、ガス湯沸かし器などの燃焼器具と家庭用電気製品が全事故情報の約2/3を占めていることもその要因と思われる。

事故情報のそれぞれには、1~2行の簡単なものではあるが、事故の内容も記載されており、さらに原因についても分類がなされている。その分類結果によると、消費者の不注意や誤使用などが約6000件と多く、製品に起因する事故は約4500件だった。ただ、原因不明や調査中のものが合わせて6000件以上もあった。詳細な情報をしばしば得にくいことや件数が膨大なことのためわからなくはないが、少々気になってしまう。

ところで、産業災害の統計は長く続いているが、対象としている事故は、その事故によって死亡するか、あるいは、病院での治療が必要となるようなある程度以上のケガを負った事故、また多くの場合にその作業には危険があることを事前に承知していた中で起きた事故、である。このため、両者の発生件数などを直接比較することには、ほとんど意味がないが、事故情報の分析の手法や考え方は応用できそうだ。一方、一般消費者が陥りやすい誤使用や不注意を分析することが、産業現場での事故防止対策のヒントとなるかもしれない。もちろん、製品の設計や品質管理に関する問題は、産業現場にもあてはまるだろう。一般家庭と産業現場では、作業目的、作業環境、安全意識も異なるから、表向きの事故原因は異なるように見えているけれども、根本的な原因は似通っているものと思うからである。