セーフティー・はーと

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第133号 放射線化学と原発事故

中村 順 <財団法人 総合安全工学研究所> 2011年5月30日掲載
私は、大学院を放射線化学教室でお世話になりました。放射線化学とは電離放射線を物質に照射したときの化学反応を研究する学問で物理化学の範疇です。
水に放射線を照射すると水分子のイオン化、励起により、水素原子、ヒドロキシルラジカル、水和電子が生成します。引き続き反応により水素ガスや過酸化水素などが生成します。酸素ガスは発生しません。放射線環境下に水があれば水素が発生することは昔からよく知られている事実です。溶液の場合には、それらの活性化学種と溶質との酸化還元反応などによりさらに他の生成物が生じます。細胞に放射線照射したときには、水分子から生じるラジカルと生体構成分子との間接反応や、生体構成分子の直接のイオン化などによりDNAなどの鎖の切断、架橋などの反応を起こして、生体内でうまく修復できないと傷害が現れたり、突然変異が起きて発がんをしたり、遺伝的影響を及ぼすことになります。

一方、私は大学院修了後、科学警察研究所で爆発事故の原因究明の仕事を長年し、数多くの爆発事故現場を見てきました。今回の原子炉建屋の爆発事故については、水素爆発と不正確な言い方がなされていますが、水素だけでは爆発しないので空気(酸素)と混合し、それに何らかの着火源により着火爆発したものと考えられます。水素ガスの可燃性を示す濃度範囲、着火エネルギー、圧力の影響など多くのデータが公表されており、いかに爆発事故を防ぐか安全工学の基本的な事項でもあります。一方で原子炉事故に関しては、水蒸気爆発の可能性も指摘されています。昔、水蒸気爆発のメカニズムがよくわからない時代に、高温の物体に接触した水が酸素と水素に分解して,それが再度反応してガス爆発を起こすと言われたことがあります。しかしながら現代ではそれでは現象を説明できず,水の急激な気化による物理的爆発として知られています。水と高温の物体との接触の状況の違いにより、突沸や噴出程度から凝縮相爆発に近いような強力な爆発まであり、その原因解明は比較的難しいものです。

事故原因の解明に科学者や技術者としては、起こっている事実をいろいろな角度から検討することが必要です。専門家とか解説者などという方々が発言されていますが、正確でない部分もみられます。運転状況の調査や、詳細に現場観察することができない状況では、推測しかありえないでしょうが、その言葉の責任はどうとられるのでしょう。

さらにインターネットや今回の事故に関連して急遽出版された本屋に並んでいる本にはなかなか必要な情報に行き当たりません。原因究明も難しいのに、一方的原因を書いて過失の追及を熱心に行っているサイトも見られます。

中国の漢の時代のことを書いた漢書という本にみえる語で「実事求是」という言葉があります。実証を重んじ,証拠のないことを信じない態度をいいます。このときだからこそ、自らの考えで判断されることが必要だと思います。