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2017年6月の記事一覧

★ 安全と安心におけるコミュニケーションの役割(第1回)

有限会社エンカツ社 代表取締役社長 宇於崎裕美
安全工学会 会員
第1回:PRと広報

世の中には情報があふれています。リスクについても安全についても、わかりやすく、ときにはおもしろおかしく解説してくれる記事や番組が次々と登場します。ネットで検索すれば、専門家だけではなく一般の人々までがなんでも教えてくれる便利なサイトがたくさん出てきます。こんなふうにどんなことでも手軽に情報が得られる時代なのに、人々はなかなか納得できません。原子力発電所、農産物、食品、鉄道、飛行機、学校、家庭、気象、健康、医療、少子高齢化・・・、人々は森羅万象について大量の情報を持っているのに、「これは本当なのか?」「大丈夫なのか?」といつも不安です。そう、今は「不安の時代」なのです。情報があるのに納得できない、不安で仕方ない。どうしてこんなことになってしまったのでしょう?
私は、四半世紀に亘り広報&危機管理広報コンサルタントとして、国内外の企業や自治体のコミュニケーション活動の改善を図るべく知恵をしぼり、現場で報道関係者や消費者と向きあってきました。その経験をもとに、自分なりの考えをご紹介したいと思います。

〇PRをめぐる誤解
「PRが足りない。」化学物質や放射性物質を扱う企業や所轄官庁の皆さんはよくこうおっしゃいます。「施設の存在意義をわかってもらえず、必要以上に気持ち悪がられるのはPRが足りないからだ」というのは、当たっていると思います。人は自分の知らないものをこわがります。だからPRに励んで、自分たちのやっていることの社会的意義や安全対策を人々に知ってもらわねばなりません。
ところで、PRとはなんでしょうか。よく使われる言葉ですが、正確な意味はあまり知られていません。PRとは、パブリック・リレーションズ(public relations)の略です。PRはパブリック(社会)とのリレーション(関係)を構築し、それを維持、発展させていくことです。PRは、プロパガンダのことではないかと言われることがありますが、それは違います。「プロパガンダ(propaganda)とは、特定の思想によって個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称」と辞書には書いてあります。自分の考えを押し付ける強引な力技のことです。PRはプロパガンダとは違い、もっと民主的です。PR活動では、相手の意見や価値観を尊重します。それで、PRは「双方向コミュニケーション」と言われます。無理やり自分たちの都合のよい方向に相手をねじ伏せるようなことはしません。相手との対話が大切であると考えます。相手に「それはいやだ」「わからない」と言われれば、「なぜ、嫌がられるのか」「なぜ、わかってもらえないのか」と自身に問いかけ、「どうすれば、相手に理解してもらえるだろう。好意的に受け入れてもらうには何をすればよいだろう」と考えます。そして、「自分にとっても相手にとっても、好ましい結果を生み出すこと」を目標に、対話に励みます。

〇PRと広報はちがうのか
「PR」も「広報」も元は同じです。パブリック・リレーションズの略語がPR、訳語が広報です。しかし、日本では使われ方が違います。どちらかというと、PRは民間企業の販売促進のことを指していることが多く、発音しやすいので会話のなかでひんぱんに使われます。一方、広報という言葉からはもっとおかたい印象を受けます。官庁はPRよりも広報を好んで使う傾向があります。民間企業でも、正式部署名や文書では広報という漢字が使われることがよくあります。
たとえば、PR誌(紙)と聞けば、商店街や食品メーカーなどが出している写真やイラスト満載の多色刷りのおしゃれな小冊子を思い浮かべることでしょう。一方、広報誌(紙)というと、役所が発行する単色刷りの新聞のようなものを想像するのではないでしょうか。このように言葉のイメージは違いますが、目指すところは同じです。PRに熱心な企業 も広報に努める官庁も、最終的には、「自分たちのことを人々にわかってもらい、周囲と良好な関係を築きたい」のです。

〇安全なのに安心できないのはなぜ?
安全とは「受容できないリスクがないこと」とISOでは定義されています。一方、安心は、個人の主観の問題です。
理論的には、科学的に安全な状態が確保されれば、人は安心してよいはずです。しかし、実際にはそうなっていません。企業や官庁、大学等研究機関が、「基準値をクリアしましたから安全です。健康に影響はありません」と発表しても、人々にはなかなか安心してもらえません。エンジニアや研究者、企業経営者や役所の担当者は頭を抱えてしまいます。

〇何を言うではなく、誰が言うかが重要
技術者や研究者等理系人間は、実験で得られたデータや理論に対して敬意を持って接していることでしょう。そういう人たちにとって、科学的根拠は安心の糧となります。しかし、今の日本では理系人間は少数派です。マスコミ関係者含め世間の大半の人は、科学的データをそれほど信頼していないように見えます。では、人々は何を信じているのでしょう。それは人です。信頼できそうな人が言ったことは、安心できると“感じる”のです。

次回は、「信頼できそうな人」とはどんな人なのかについて考えてみます。