セーフティー・はーと

セーフティー・はーと

「これからの日本にとって、安全は」

山中 洋 <三井化学株式会社> 2013年7月8日掲載
最近の新聞記事を読んでいると、グローバル化の加速に伴って日本の産業が大きく変化しつつあるのを強く感じる。

これは即ち、日本の企業の果たすべき役割が今までとは変わってきていることを示しているのであろう。
歴史を振り返ってみると、人々にとっての世界は着々と拡がってきた。原始時代には「集落」、江戸時代には「藩」、明治維新後には「日本」が人々にとっての世界であったと思う。これと同様に、いま人々にとっての世界が「日本」から「地球」に変わってきている。このような変化の時代の中で、日本企業の役割が大きく変わるのはごく自然なことだろう。世界が拡がる度に役割分担は最適化され、たとえば「大規模プラントは都心よりも地方に建設する」という今までの常識が「大規模プラントは日本よりも新興国に建設する」という風に変わりつつある。
では今後、世界における日本企業の役割とはどのようなものになるだろうか?個人的には、日本は今「お金持ちのシニア国」というポジションにあると考えている。資金力は潤沢だが、少子高齢化により労働力は減少している。このポジションから考えると、今後日本の企業が世界で活躍する分野(≒世界から期待されている分野)は「資金力」や「経験」を生かした分野になると思う。
経験が生きる分野の一つとして真っ先に思い浮かぶのが「安全」だろう。安全を維持するには、過去に痛い目に遭い、これを克服してきた経験が生きる。安全には過去の経験の積み重ねに基づく慎重な判断が不可欠であり、これは新興国が一朝一夕にキャッチアップできるものではないと思う。この強みを生かすためには、長年にわたり蓄積してきた経験を確実に伝承し、一つ一つ着実にサイエンスにしていくことが重要なのではないだろうか。安全の分野には、科学者にとって幸いなことに暗黙知が今なお多く存在し、サイエンス化する余地がまだ十分に残っていると感じている。日本の安全工学は、今まさに発展期に突入するところだと思う。

『リスク』という語について

熊崎美枝子 <横浜国立大学 大学院環境情報研究院> 2012年7月9日掲載
国内の政治・経済・経済情勢も先行き不透明で、日々報道される世界情勢も混沌とし将来が読めない昨今では、

不確実性の高い状況を説明する上で『リスク』という語は、大変便利な言葉だと思います。『リスク』とカタカナで書かれていることから、比較的新しい言葉であることが推察されます。オンライン記事データベース(聞蔵Ⅱビジュアル)で調べましたところ朝日新聞の記事中に『リスク』という語が用いられたのが1984年には37件だったのが、徐々に使用頻度が増え、1998年には1166件、2011年には震災の影響もあってか2193件に達しており、近年ではすっかり身近な語として浸透したようです。それだけ新聞記事がリスクという語を用いて、時代の不確実な面を切り取っていると言えるでしょう。

   しかし果たして我々は『リスク』という語が表す意味を理解し、共有しているのでしょうか。事実、データベース中には「リスク(危険)」 「危険度(リスク)」と書かれているような記事もあり、『リスク』という語が本来もつ「顕在化する可能性」の要素が抜け落ちていたり、事象や物質・システムがもつ固有の『ハザード』と混同しているケースも見受けられます。このような混同は、安全性を考える議論において問題となってきます。ハザードについて対策しているのか、リスクについて対策しているのか、自ずと対策の内容も異なるはずであり、管理の仕方も変わるので議論している場では参加者が認識を共有する必要があるでしょう。

   ヨーロッパ言語のなかにはリスクとハザードの区別がない言語もあるとのことですが日本語話者である我々も改めて『リスク』と『ハザード』について、認識を見直してみる必要があるのではないでしょうか。

 

東日本大震災から1年を経て

古積 博 <消防庁消防大学校消防研究センター> 2012年3月29日掲載
東日本大震災から1年が経過した。被害に遭われた方々には改めてお見舞い申し上げます。
この間、辛い経験をされた方もおられることと思います。私自身も震災地に親戚を持ち、また、色々な経験をしたが、ここでは、別な観点から述べてみたい。私、昨年3月で定年退職した後、外国に行く機会を得、様々な外国人、外国のマスコミ報道に触れる機会があり外国人が日本をどう見ているか知ることができた。
 外国のテレビ、新聞が日本について報道することはほとんどないが、さすがに、東北地震だけはよく報道されていた。単に感傷的な報道や地震の怖さだけではなく、原子力の怖さ、世界の政治、経済への影響等細かいことまでよく報道されていた。日本の産業の空洞化と日本の産業の移転によって受入国の雇用促進の話もニュースになっていた。改めて、世界地図で見れば、日本は、ごく小さな島国で、原発事故で日本全体が被害を受けたと思われても仕方ないようである。
 日本の民度の高さ、最小限の混乱しか起きなかったことはよく知られており、この面では確かに相変わらず日本は評価されている。「ふくしま50」という言葉はよく知られており、日本の現場力、特に社会全体において自己犠牲の精神、責任力の高さが評価されている。改めて、日本が好きになったとか、日本人が尊敬できるといったことをよく言われた。ただ、日本の現場力の高さは、反面、日本の組織のトップがいかに責任を果たしていないかの裏返しと思う。日本の国政の混乱や原子力行政・技術・研究のまずさはまさにその一端だろうが、企業や官庁でも同様かもしれない。さらに学会組織はどうであろう。確かに、多くの底辺の職員、研究者、技術者は優秀であるが、どうもそれを束ねる力とか戦略が不足している気がする。先日も、被災地を訪問し、遅々として進まない復興の様子や瓦礫の山を見ると情けなくなる。どうも日本人は、このような力が足りないのかもしれない。行政組織、企業、学会その他の組織のトップ、幹部の方には、ぜひ、がんばって貰いたいと思う。

第138号 失言

鈴木 和彦 <岡山大学 大学院 自然科学研究科> 2012年1月17日掲載
昨年(2011年)に開催されたある会合での「私の失言」の話である.
安全教育についての会合後の懇親会で,乾杯の音頭と挨拶を 依頼された.そこで私は「安全は大切だが企業が利潤を追求することが重要である.利潤を得てこそ安全に投資することが可能となる.しっか りと安全教育を実施してほしい.」旨の発言をした.「失言」であった.その場がしらけ,懇親会の最中に参加者から「企業にとって安全が第一である.なぜあのような発言をしたのか?」と叱責・非難された.その頃の私の問題意識の中に「企業の国際的競争力の低下」があった.国際競争力を失い,企業の体力が低下すると,安全への投資は減るばかりである.競争力強化を願うことからの発言であった.しかし,「失言」であることには間違いない.「安全第一」の重要性を今一度しっかりと肝に銘じようと反省の日々である.

その会合での「失言」が今でも気になっている.いくつかの企業の方に質問すると,ほとんどは「利潤追求」より「安全」であると言われる.しかし,現実はどうであろう?現場の人員は極限近くまで削減され,課長さんは書類作成・整理に追われてほとんど現場に出ていない.現場の悲鳴が聞こえ,現場の細部に安全管理の目が行き届いていない.平常時の業務はこなせても,非定常な状態に適切に対応できていない.そのことから事故が起こっている.

企業では [安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間での活動を強いられる.そのような状況の中,安全成績が優秀な企業・事業所が確実に存在する.経営層・上級管理職の強いリーダシップ,現場での使命感・納得感が感じられる.さらに,そこには適切な資源配分が施されている.

昨年の「失言」の後遺症かもしれないが,[安全第一 ⇔ 競争力強化(利潤追求)」の狭間で悩みそうである.その解が「安全文化」かもしれない.

しかし,最近の学生達,若い大学教員・研究者に競争意識がない.その結果,競争力がない.このことも気になる.

第137号 ISO 26262「自動車の機能安全」は日本の得意技となり得るか

佐藤 吉信 <東京海洋大学 海洋工学部> 2011年11月22日掲載
さる11月15日にISO 26262「自動車‐機能安全」、
すなわち自動車(重量3.5トン未満の乗用車)における電子制御システムの機能安全規格が正式にISOより発効された。
現在の状況は、自動車レースに例えれば、セーフティカ―(先導車)あるいはポールポジション車両が先導してコース周回走行中であり、これが3~4年間継続した後、いよいよローリングスタート(Rolling Start)となる状況に似ている。すなわち、3~4年後には我が国においても自動車の機能安全規格(ISO 26262)適合車種の市場への流通が開始される見込みである。

自動車電子制御の安全指針策定すなわち自動車の機能安全規格策定の経緯を振り返ると、国内では、2001年から2002年にかけて、国土交通省がスポンサーとなり、機能安全基本規格IEC 61508「電子・電気・プログラマブル電子安全関連系の機能安全」を自動車の電子制御の安全基準策定に応用する検討会(事務局:自動車研究所、座長:佐藤吉信?東京海洋大学)が実施された。検討会の調査報告書は、その後の我が国の例えばABS(Anti-lock Braking System)の認定試験などにおいて少なからず活用された。しかし、この種の検討会の国の予算措置は通常2年程度が限度である。国際規格への提案となれば、最低でも5年は予算措置を継続する必要がある。結局、我が国からは自動車の機能安全規格策定の提案を行うことはできなかったという苦い思い出がある。

その頃、EUでは、ドイツとフランスが中心となり、同様に自動車電子制御の機能安全規格の策定が開始されたといわれている。そして、2005年6月、ISO/TC 22/SC 3においてドイツのDINを事務局とするISO 26262原案策定ワーキンググループ(WG)が発足したことになる。その結果、舞台をISOに移して、ヨーロッパ、日本、米国などの自動車メーカーと部品メーカーからのエキスパートを中心としたWGの精力的な6年6ヶ月の作業、非公式の地域的な検討開始から数えれば実に10年の歳月をかけてISO 26262が発行されたことになる。

もっとも、ISO 26262は基本規格IEC 61508を親規格とした自動車用製品規格であり、その誕生まではIEC 61508の策定作業の開始から実に20年近い歳月が流れたことになり、感無量の思いもある。筆者は、直接的にはISO 26262の策定作業には関わらなかったが、完成したISO 26262を読むと、IEC 61508における安全マネジメント及び技術上の基本的な要求事項、例えば、SIL/リスク軽減、決定論的能力、安全側故障割合(SFF)をそれぞれASIL/リスク軽減、ASIL具現化のための分解(decomposition)、フォールト・メットリクスなどとして、自動車電子制御の機能安全のための特有な仕立て直しと具体化(tailoring)を行っている。さすがに、自動車産業は人材豊富であり、いずれも的確な仕立て直しと具体化である。

ものづくりが生命線である日本にとって、ISO 26262「自動車の機能安全」規格の実践を日本の得意技とし、安全においても世界をリードしていくことが筆者の願いでもある。