セーフティー・はーと
「これからの日本にとって、安全は」
最近の新聞記事を読んでいると、グローバル化の加速に伴って日本の産業が大きく変化しつつあるのを強く感じる。
これは即ち、日本の企業の果たすべき役割が今までとは変わってきていることを示しているのであろう。
歴史を振り返ってみると、人々にとっての世界は着々と拡がってきた。原始時代には「集落」、江戸時代には「藩」、明治維新後には「日本」が人々にとっての世界であったと思う。これと同様に、いま人々にとっての世界が「日本」から「地球」に変わってきている。このような変化の時代の中で、日本企業の役割が大きく変わるのはごく自然なことだろう。世界が拡がる度に役割分担は最適化され、たとえば「大規模プラントは都心よりも地方に建設する」という今までの常識が「大規模プラントは日本よりも新興国に建設する」という風に変わりつつある。
では今後、世界における日本企業の役割とはどのようなものになるだろうか?個人的には、日本は今「お金持ちのシニア国」というポジションにあると考えている。資金力は潤沢だが、少子高齢化により労働力は減少している。このポジションから考えると、今後日本の企業が世界で活躍する分野(≒世界から期待されている分野)は「資金力」や「経験」を生かした分野になると思う。
経験が生きる分野の一つとして真っ先に思い浮かぶのが「安全」だろう。安全を維持するには、過去に痛い目に遭い、これを克服してきた経験が生きる。安全には過去の経験の積み重ねに基づく慎重な判断が不可欠であり、これは新興国が一朝一夕にキャッチアップできるものではないと思う。この強みを生かすためには、長年にわたり蓄積してきた経験を確実に伝承し、一つ一つ着実にサイエンスにしていくことが重要なのではないだろうか。安全の分野には、科学者にとって幸いなことに暗黙知が今なお多く存在し、サイエンス化する余地がまだ十分に残っていると感じている。日本の安全工学は、今まさに発展期に突入するところだと思う。
『リスク』という語について
熊崎美枝子 <横浜国立大学 大学院環境情報研究院> 2012年7月9日掲載
国内の政治・経済・経済情勢も先行き不透明で、日々報道される世界情勢も混沌とし将来が読めない昨今では、
不確実性の高い状況を説明する上で『リスク』という語は、大変便利な言葉だと思います。『リスク』とカタカナで書かれていることから、比較的新しい言葉であることが推察されます。オンライン記事データベース(聞蔵Ⅱビジュアル)で調べましたところ朝日新聞の記事中に『リスク』という語が用いられたのが1984年には37件だったのが、徐々に使用頻度が増え、1998年には1166件、2011年には震災の影響もあってか2193件に達しており、近年ではすっかり身近な語として浸透したようです。それだけ新聞記事がリスクという語を用いて、時代の不確実な面を切り取っていると言えるでしょう。
しかし果たして我々は『リスク』という語が表す意味を理解し、共有しているのでしょうか。事実、データベース中には「リスク(危険)」 「危険度(リスク)」と書かれているような記事もあり、『リスク』という語が本来もつ「顕在化する可能性」の要素が抜け落ちていたり、事象や物質・システムがもつ固有の『ハザード』と混同しているケースも見受けられます。このような混同は、安全性を考える議論において問題となってきます。ハザードについて対策しているのか、リスクについて対策しているのか、自ずと対策の内容も異なるはずであり、管理の仕方も変わるので議論している場では参加者が認識を共有する必要があるでしょう。
ヨーロッパ言語のなかにはリスクとハザードの区別がない言語もあるとのことですが日本語話者である我々も改めて『リスク』と『ハザード』について、認識を見直してみる必要があるのではないでしょうか。
東日本大震災から1年を経て
東日本大震災から1年が経過した。被害に遭われた方々には改めてお見舞い申し上げます。
外国のテレビ、新聞が日本について報道することはほとんどないが、さすがに、東北地震だけはよく報道されていた。単に感傷的な報道や地震の怖さだけではなく、原子力の怖さ、世界の政治、経済への影響等細かいことまでよく報道されていた。日本の産業の空洞化と日本の産業の移転によって受入国の雇用促進の話もニュースになっていた。改めて、世界地図で見れば、日本は、ごく小さな島国で、原発事故で日本全体が被害を受けたと思われても仕方ないようである。
日本の民度の高さ、最小限の混乱しか起きなかったことはよく知られており、この面では確かに相変わらず日本は評価されている。「ふくしま50」という言葉はよく知られており、日本の現場力、特に社会全体において自己犠牲の精神、責任力の高さが評価されている。改めて、日本が好きになったとか、日本人が尊敬できるといったことをよく言われた。ただ、日本の現場力の高さは、反面、日本の組織のトップがいかに責任を果たしていないかの裏返しと思う。日本の国政の混乱や原子力行政・技術・研究のまずさはまさにその一端だろうが、企業や官庁でも同様かもしれない。さらに学会組織はどうであろう。確かに、多くの底辺の職員、研究者、技術者は優秀であるが、どうもそれを束ねる力とか戦略が不足している気がする。先日も、被災地を訪問し、遅々として進まない復興の様子や瓦礫の山を見ると情けなくなる。どうも日本人は、このような力が足りないのかもしれない。行政組織、企業、学会その他の組織のトップ、幹部の方には、ぜひ、がんばって貰いたいと思う。
第138号 失言
昨年(2011年)に開催されたある会合での「私の失言」の話である.
第137号 ISO 26262「自動車の機能安全」は日本の得意技となり得るか
さる11月15日にISO 26262「自動車‐機能安全」、
すなわち自動車(重量3.5トン未満の乗用車)における電子制御システムの機能安全規格が正式にISOより発効された。