新型コロナ巣ごもり愚行 リスクの多様性、備えと施行
西川 康二
17世紀に猛威をふるったペストで大学が閉鎖され、郷里の村に避難した若きニュートンが、わずか1年半の間に考えを深め、万有引力や微積分、光の屈折差による七色という画期的な発見をしたという話(朝日新聞 5月22日の天声人語から引用)には遠く及ばないが、コロナ禍による自粛巣ごもり中の愚行を試みた。
リスクとは「損失の可能性」である、というのが私個人の定義であるが、個人、事業、社会、世界的規模の損失などの応じて多種・多様なものがある。私生活に限ってみても、火災、盗難、風水害、疾病、詐欺、失業、交通事故、破産等々、多岐にわたる。
事業、社会、世界に影響を及ぼすリスクについても、大別すると、専科、自然災害、疾病拡散が昔から経験され、これに貨幣価値や情報に関するリスクが加わる。複数の種類のリスクが重なる複合リスクもある。今回のコロナ禍は人名と経済の複合型で、疾病と失業のリスクの拮抗する両者の調和が政策として求められている。
事業の基礎は、資本、労働、社会の利害相反する3本柱にあり、投資家、従業員、需要者への利益配分の調和の上に成り立つっている。近年次号者の社会的責任が重視されている。
約100年前のスペイン風邪の大流行は、戦火(第一次世界大戦)と疾病拡散伝染(兵士の密集)と情報秘匿(軍事機密)が主要因の複合であり、戦死者よりも病死者の方が多くなった。今回の新型コロナ禍によって、自然災害と疾病拡散のリスクの複合が問題視されている。自身、津波、台風、火山噴火などの自然災害大国の日本で、有事の際の避難所の疾病拡大の防止(三密防止)をどう保つか、今回のコロナリスクの記憶を忘れぬうちに、その備えを考える必要がある。
交通網の発達により、疾病が実態不明のまま急速に蔓延した場合、当座の常套手段以外は試行錯誤を繰り返すしかない。人名と経済の矛盾する政策を時間をかけて切り返すのは、大渋滞の中でドライバーがアクセルとブレーキを踏み分けて、ソロリソロリと車間距離を保ちながら進むのに似ている。乗っている者は解決するのをゆっくりと待つしかないのである。私自身は少くとも今年一杯は続くことを覚悟している。ワクチンも新薬も来年以降になるであろう。
対応が遅れがちな発展途上国の今後の動向が心配であるが、5月下旬の報道による世界のコロナ死者推計32万人の数字は、今後どこまで増えるか、蚊の媒介による疾病(マラリヤやデング熱など)の世界の死者、年間推定83万人(2015年)に匹敵する数になるかもしれぬ。
感染者数は検査実施の数に左右されるが、死者の数はその確認手続き(脂肪診断、戸籍と住民登録抹消、埋葬許可)からみて日本では大きな誤差はないであろう。その人口当たりの死者の数が欧米に比べて日本が格段に低いのは、感染防止や医療がそこそこ間に合ってきたと考えられる。
5,000以上と言われる新型コロナウィルスの変異の種類の多さと、その中の有害性の差以外に、ウィルスが取り付く人体の遺伝子の差があるのではないか、研究が進められていると聞く。
何はともあれ、日本ではアクセルとブレーキの操作がまあまあうまくいっているように見える。「禁じられていなくても許さない」風土が、それを助けているようにも思える。
「自らを守ることが社会を守る」その気風が続くことを祈ると同時に、「自国第一ではない世界協調が、明日の復活や改革に寄与する」そのような政治にも期待したい。